Copyright (c) SampleCreative.ltd, All Rights Reserved.

陽光
  


陽光/0





午後の日差しを眩しそうに仰ぎながら歩く、一人の青年。
鮮やかな金の長髪、日に焼けた肌と蒼い眼がトレードマークの青年は、腰には剣を下げ、肩に背負った大きな革袋は狩で仕留めた獲物を捌いて入れてあるのだろう、ずっしりと重そうに見えるが、いとも容易くそれを担ぎ上げて歩く。

彼が孤児院の軒下をくぐると、その精悍な姿を一目見るや、釣られるようにして子供たちが足元に集まってきた。しゃがんで一通り頭を撫でてやり、後は軽くあしらいながらキッチンへと向かう。
食欲を刺激する香辛料の香りが家中に広がっている。と、水分を含んだ野菜がフライパンに投入されたのか、大きな音が上がった。青年は、既にそこに並べられている料理を見て満面の笑みを浮かべた。

「お、美味そうだな!どれどれ……」
「こらスタン、絶対つまみ食いするなよー!もし食ったら、スタンの晩ご飯を減らすからなー!」
「わ、分かってるって……」

傍に居た子供たちにすら窘められてしまう、その情けない声を聴いて、青年が帰宅したのにようやく気付いた黒髪の少女が、料理の手は休めずに彼の方へと向き直る。
「あらスタン、お帰り。早かったじゃない?」
「うん。ガゼルさんとこの子が熱出しちゃったから、稽古どころじゃなくって。少し看病してきたんだけど、あ、これ帰りに仕留めて……」
「げ!ちょっとあんた、先に手を洗ってから入れって、いつも言ってるでしょ?」
「わ、本当だ!やばいやばい……」
獲物を披露しようと思い、つい中へ入ってしまった。妹にも度々同じ事を言われていたけれど、癖というのは中々直らない物だ。急いで手洗いを済ませ、首に掛けたタオルで汗を拭うと、彼はようやく少女の横に並んで立つ事を許された。向かいで遊んでいる子供たちには聞こえないように、声を潜めて話す。

「ルーティ、リオンはどう?」
「ん……マリアンがずっと付いててくれたから、何とか、ね。流石に疲れてるだろうし、あんた少し代わってきてやってくれる?ご飯、出来たら呼ぶからさ」
「マリアンさん、本当律儀だよなあ。分かった、行ってくる」
二人の事が余程気掛かりなのだろう、そう言うや否やスタンはさっさと歩いていってしまった。

そんなに急がなくったって、大丈夫なのに。
「あの二人は、少しぐらい放って置いた方が良いのにね、全く。鈍い奴……」
お邪魔虫にならない様にしてよね、と内心思いながら、ルーティは小さく溜息を吐いた。




「マリアンさーん……?」
声を掛けながらノックすると、彼女はすぐに応対に出てくれた。
「スタンさん、お帰りなさい。今日はお早いんですね?」
「ああ、剣の稽古が一つ無くなったから、思ったより早く帰って来れて……リオン、どうですか?」
「さっきまで少し苦しそうだったのだけど、落ち着いたら眠ってしまったわ」

日暮れの淡紅色の光に照らされた白い頬に、長い睫毛が影を落とす。そのコントラストが鮮やかで、思わず見惚れてしまいそうだった。
『美しい物に性別なんか関係ない』
昔の偉人が残した言葉だっただろうか、ふと思い出したのはそんな事だった。
だけど、目の前に横たわるリオンは単に色が白いというのを通り越して、むしろ蒼白と言うべき顔色で、心持ちぐったりとしながらベットに沈み込んで眠っている。

「動かしたのが、まずかったかな……」
ダリルシェイドに居ることで余計に体調を崩すのではないかと危惧したスタンは、移動を最優先にした。タイミングを逃すと、本当に身動きが取れなくなってしまいそうだったからだ。
だが、到着したその日の夜から熱が上がり始め、こちらに来てから三日、リオンはずっと臥せったままである。
大した距離では無いとはいえ、とても万全とはいえない状態で連れて来てしまったことに、スタンは少なからず責任を感じていた。

もう少し、待った方が良かったのだろうか。けれど、彼が悪夢に魘される回数が明らかに減っている事を考えると、これで良かったのかもしれない、とも思う。

睡眠と食事は、全ての基礎だ。その二つがきちんと満たされなければ、身体が悲鳴を上げ、精神は磨耗してゆく。
正しくリオンはその状態だった。上手く寝付けなくなり、眠れてもうなされて目が覚めて、もう一度眠るのが怖くなり余計に寝付けなくなる。
食欲が無く、何を食べてもさして味がしない。リオンに言わせれば砂を噛んでいるような気分らしい。他人の前でみっともなく倒れてしまうのは嫌だから、という理由だけで最低限の物を口にしていたらしい。食事でさえも、彼の中では随分前から単なる義務となっていた様だ。

ここ十日余り、彼の様子を見ていて気づいたのは、精神的に動揺していると食事が一切摂れなくなる事。こういう時は無理に食べさせようとするより、ゆっくり背中をさすって彼の話す事をじっくり聞いてやるか、思い切って休ませるのが最優先。
眠るのが怖いと言う時には、無理に薬で寝かせるより、ベットの傍に腰掛けて添い寝してやると比較的穏やかに眠れる事。

少しづつではあるけれど、対処の仕方も掴めて来た。今はまだ不安定な状態だけれど、睡眠と食事さえきちんと取れるようになれば、いずれ回復してゆくはずだ。
その為にも、場所を変え気持ちを切り替えて、しっかり療養させてやりたいと思っての移動だった。とはいえ、依然として辛そうな彼の姿を見ると、心が揺らいでしまう。



「今日はね、お昼は卵粥が良いってエミリオからリクエストがあったのよ。そんな言葉を聴いたのは初めてだったから、驚いてしまって」
「は、初めて……ですか?」
「ええ、いつもは『何でも良い』としか言わないし、何にしようか困っていたからびっくりしたのよ。お屋敷に居た頃なんて、お部屋にお持ちしても手付かずのまま朝まで残っていたもの。誰かが見ていないと分かると途端に食べるのを止めてしまうから、私は何かと理由を付けて、食堂に最後まで残ってみたりして。」
「そう、だったんですか。」
「任務として長旅に出る、と聞いた時は、本当に心配したわ。あの調子で、大丈夫なのかしらって。」
「俺、初めてマリアンさんに会った時『あの子をよろしく』って言われたの、まだ覚えてます。最初、何を心配してるのか全然分かんなかったんですよ。だってむちゃくちゃ強いし、部下の人たちに皮肉とか言われても全然平気な顔してて、むしろ皮肉で返したりするじゃないですか、リオンって。
でも、一緒に居る時間が長くなってきて、段々……というか本当に少しずつですけど、マリアンさんが心配するのも分かる気がする、って」


旅を始めた当初は、その毒舌ぶりに吃驚させられたものだ。当の本人は本当の事を言って何が悪いと言わんばかりの態度で、二の句を注げば、足を引っ張るな、余計な事をするな、軟弱者は捨て置くぞ、といった調子だった。

だから、なかなか気が付けなかったのかもしれない。その口の悪さ、冷徹な振る舞いに隠された、彼の本当の姿に。
リオンは他人には口煩く言う癖に、自分の事には酷く無頓着だった。他人にも厳しいが、それ以上に自分に厳しかった。
自分の身体も心もおざなりにして、只々責任感や義務感で動き続け、任された事を正確に、確実にこなして行くだけ。徹底的に自分を抑え込んでいるから、仮にも寝食を共にした仲だというのに、いざという時に彼が何を考えているのか全く分からなかった。

勿論、スタンは彼を信頼し、尊敬もしていた。けれど、ただ彼の、底知れぬ心の闇の様な物を垣間見た時には背筋が凍りつく思いをした。
人より二枚も三枚も上手で、時には相手が何を考えているか分かっていて敢えて裏をかく。自分が見ているより、彼はずっと先を読んでいるのだ。
それがスタンには理解出来なかった。言葉の裏に隠された意図を見抜くなんて考えた事も無かったし、今までの人生で一度も必要としなかった。だから最初はただ単に凄い、と思っていたけれど、共に旅をしている内に、何だか末恐ろしくなってきてしまったのだ。

知りたくもない事まで分かってしまったり、周りの些細な言葉にも裏が無いか無意識に探ってしまう。
まだ年端もいかぬ少年がそんな事を常に考えながら生きていて、見知らぬ人間と旅をし、厳しい任務を与えられ、年齢に相応しく笑ったり仲間と打ち解けたりして息抜きするでも無く、只々敵となる魔物 ー時には人間ー を切り伏せていく。
無駄を全て削ぎ落としたその生活は、確かに高い成果を挙げているし、効率は良いかも知れないけれど、同時に心の豊かさを失ってしまう気がした。

こんな風に時間に追われ、やるべき事に追われている内に、人として大切な事まで容易く見失ってしまうのではないか。

そう気付いた時には、既に遅かった。


「俺、びっくりしちゃったんです。リオンって時々、とんでもない事を平気で言うんですよ。金で解決するならそれが一番だ、とか、お前に足りないのは足手まといを切り捨てる覚悟だ、とか。
そういうの聞いてる内に何か俺、怖くなってきちゃって……」

人の醜い部分を熟知していて、更にそれを利用して効率的に物事を解決させてしまう。そんな汚いやり方をするのは、悪行で私腹を存分に肥やしてきた様な、極悪非道な一部の人間だけだと思っていた。
一見育ちの良い、大人しそうなお坊ちゃんにしか見えない彼が、どうしてそれを平然とやってのけてしまうのか。

よくよく考えたら、理由なんて一つしかない。
これが最も効率が良く、無駄が無い方法だという事を、これまでの人生で彼が身を持って実感していたから、だ。


「躊躇いなくそんな事が言えるのは、経験した事があるからだって気が付いてからは俺、何も言えなくなっちゃって。情けないですよね」
「幼い頃から大人の世界で過ごしていたから色々見ているでしょうし、エミリオにとっては、それが普通になっていたのだと思うわ」

言外に、あなたは何も悪くないわ、と匂わす様に言う彼女の優しい気遣いが、胸にしみた。

「俺はずっと、リオンの強さに憧れてました。剣の腕もそうですけど、どこに行っても物怖じしないで誰とでも対等に渡り合えるし、年上の俺達をどんどん引っ張っていけるし……正直、格が違うって感じで羨ましかったんです。
でも、才能があるのって良い面ばかりじゃないんだなって。俺には分からなかったけど、きっとリオンは相当苦労したんだろうなって、最近になって気付いたんです」

「そう、ね。それでも……」
「?」
「それでも、エミリオは努力する事を辞めなかった。お父様の影としてでなく、自分自身を認めてもらいたい、と言って、ずっと頑張っていたの。それがきっと、エミリオの子供らしい部分だったのだと思うわ。
大人は、手に入れるのが大変だと分かったらすぐ諦めてしまう。けれど、エミリオは諦めなかった。茨の道と分かっていても、欲しい物を手に入れる為にずっと努力して……少し、駄々をこねている様にも見えたけれど、ね」

彼女は微笑みながらそう言うけれど、スタンにはそれが少し無理をして笑っている様にも見えた。

「マリアンさん、やっぱりリオンの事を良く見てるんですね」
「ええ、ずっと側仕えを務めていましたから」
「……無理言って、すみませんでした。大見得切って連れて来たのに、結局またリオンを寝込ませちゃったし」
「スタンさん、どうか謝らないで。私はずっと貴方にお礼をしたかったの。」
「え……」
「リオン様をお助け頂き、本当にありがとうございます。貴方のお陰で私、大切な人を失わずにすんだわ」
「そんな、俺はただ当たり前の事をしたまでで、その……」
「ふふ、スタンさんはそう仰ると思ってました」

そう言って俯くと、彼女は一つ息を付いてから窓の向こうに目をやる。

「私、ずっと自分の気持ちに気付かない振りをしていたの。
でも、心の底では羨ましかった……辛い状況でもこんなに気高く、自分をしっかり持つ事が出来るエミリオの強さに、いつの間にか憧れていたわ」

そう語る彼女の瞳にもまた、強い意志が感じられた。彼女もまた、強い。
この二人は、似ているのだ。何があっても、自分を貫こうとする、意志の強さ。

「でも……その強さを支えたのは、きっとマリアンさんです。俺達だけじゃ、リオンを引き止められなかった。マリアンさんが居ない世界に意味はない、って散々言ってましたから」
「……そう、そんな事を……変ね、私、とても嬉しいの。なのに……」
「マリアンさん……」


リオンが惚れるのも、分かる気がする。
涙を零す彼女を見て、スタンはふとそんな風に思った。
リオンの強さに憧れる、なんて言ってたけれど、彼女も大人しそうに見えて芯が強い。
そして何より、この人が流す涙はとても綺麗で、温かみがある。
ダリスと戦った後に彼の元へすぐさま駆け寄った、マリーの姿が思い出される。
大切な人を想って流す涙というのは、いつでも、とても美しいものだ。

「スタンさん、少しリオン様を診ていて頂けますか?」
「勿論です、任せてください」

涙を見られたらリオンを動揺させてしまうと思ったのだろう。目立たないけれど、誰かを一途に想うからこその、細やかな配慮だ。

……何だか、見ているこちらの方がくすぐったいような、こそばゆいような、そんな気分だった。


「……リオン、俺はお前が羨ましいよ。マリアンさん、お前に首ったけみたいだ」

未だ眠る彼には聞こえないけれど、それでいい。本当の愛を手に入れた彼を祝福してやるのは、もっと先の事になるだろうから。



「スタン、ご飯できたわよ」
ノックと共に静かに部屋に入ってきたルーティが、小さな声で囁く。
「ああ、ありがとう。俺はここで食べようかな」
「じゃ、持ってこよっか?」
「ううん、今は良く寝てるから少し位離れても大丈夫だと思う。自分で持ってくるよ」
「そ。本当に良く寝てるわね。珍しいじゃない?」
「ね、俺もそう思った。やっぱりクレスタに連れて来て良かった」
「何よあんた、後悔してたわけ?確かにここはがきんちょ共が騒がしいけどさ」
「はは、確かに子供達は元気だよな」
「もー、スタンの癖にはぐらかさないでよ。さ、下降りるわよ」
「ん、そうだね」


すっかり日が暮れて暗くなってしまった部屋に、マッチでランプを一つ灯してから、青年は静かに部屋を後にした。


0. end


陽光/1





"大丈夫"
"なんとかなる"

"俺たち、仲間だろ"


理想を並べたてる、眩しい笑顔
嘘を付くな、騙されない
傷付くのが怖いから、拒絶する
だけど、信じてみたい、拮抗する思い
結局天秤は、どちらにも傾かない

心の底に押し込めて、麻痺させて、何も分からない振りをすればいい
いつまでも、気付かない振りをしていればいい

いつまでも、?
それは、いつまで?
このまま、死ぬまでずっと?


ずっと、独りでーー?








目が覚めた時、部屋には他に誰も居なかった。庭ではしゃぐ子供達の声だけが微かにこだまする、晴れた空。心持ち眩しい陽射しは、かなり高い位置にある。午後にはまだ少し早い時間だろうか。

目が覚める前に何かを考えていた気がするが、目を閉じて思い出そうとしても瞼の裏には何も浮かんでこない。
駄目だ。
昨日やっと熱が下がったばかりというのも関係しているだろう。だが、それより前からリオンは自分の異変に気付いていた。良くも悪くも、昔から自分の記憶力には自信があった。一度言われた事は決して忘れない、それが父との関係に於いては非常に重要な事だった。そうした習慣が身に付いていたからだろうか、例え忘れてしまいたい様な酷い悪夢であっても、その内容は一から十まで全て記憶してしまっていた。

……どちらかと言うと、夢など忘れてしまった方が楽なのだろう。
特に意味がないものをわざわざ覚えておく必要はない。不思議な事だが、ここ何日かの間に見た夢は……勿論うなされる夜もあったけれど、一度起きてしまえばそれを思い出すことは無くなっていた。精神的に翻弄させられない分、日中も落ち着いていられる。

ベットを抜け出して室内履きを引っ掛けると、サイドテーブルに残されたグラスを片手に立ち上がる。昨日までの酷い眩暈は治まっていた。倦怠感はまだ少し残っているけれど、起きて動くのに支障が出る程では無い。ただ、起きてうろうろしているのをスタンに見つかると色々面倒になりそうなので、そっと音を立てないようにリビングへ降りた。


キッチンで水を汲んで、洗面所で身支度をする。外に出る予定は無くても、日頃からの習慣は崩さない。それだけで、気持ちが幾らかしゃんとするのを、リオンは経験上良く知っていた。

洗面所を出たところで、起きた時より倦怠感が強くなっている事にふと気付いた。さっさと部屋に戻って着替えようと思っていたけれど、身体が鉛の様に重い。仕方なく手の中のグラスをダイニングテーブルに預け、ゆっくりと椅子を引いて腰掛けると、思わず溜息を吐いた。

ああ、子供達の声が少しづつ近づいてくる。その中に、聞き慣れた男の声が混じっているのに気が付いた。けれど、怠い。動く気にもならない。このまま静かにしていれば気付かれないかもしれない、と閃いたリオンはテーブルに突っ伏してやり過ごそうと思った。
直ぐに、玄関のドアが開いた。思った以上の騒々しさに文句の一つも言いたくなるが、面倒は避けたい。どうせまたすぐ外へ戻ってしまうだろう、それまでの我慢だ。
足音が、近づいてくる。いや、子供達がスタンにじゃれている内は、気付かれない。

筈、だった。


「あれ、リオン?起きてきて大丈夫なのか
!?」

……普段は鈍い癖に、こういう時だけ、やけに目ざといのは何故なんだろうか。

「……煩い、大丈夫だ」
「お前なあ、後で自分の顔を鏡で見てみろ。大丈夫って顔じゃないぞ」
「子供じゃあるまいし、一々心配するな……」
「部屋まで帰れるか?肩貸してやるから、ほら」
言うや否や、奴は僕の右腕を掴んで立たせようとする。そこまで心配を掛けるほど、酷い顔をしていたのだろうか。何だか急に気恥ずかしくなって、慌ててその手を振り払った。
「いい、一人で歩ける」
「じゃ、部屋まで送る」
「は!?」
「は、じゃないだろー、廊下で動けなくなったりしたらどうするんだよ」
「そこまで酷く無い、」
「もう、ムキになるなって、お前は良くても俺は気になっちゃうんだよ」

ほら、と言うように肩を掴まれ、半ば無理やり階段へと連れて行かれた。
「スターン、どこ行くのー?」
子供達の中で一つ年上らしい少年が、皆の意見を代表するように問い掛ける。
「エミリオを、部屋まで連れて行くから。ちょっと待っててー」
「はーい」

……やっぱり、子供扱いされている!
内心そうは思うものの、体の怠さとスタンの押しの強さには勝てる筈もなく、特にリビングに留まる理由もないので大人しくされるがままに部屋へ連れられていく。

「腹減った?というか食べないとな。子供達はシスターと、ルーティももうすぐ帰ってくるから二人に任せておくよ。お粥作るけど、どれ位食える?他に何か食べたいもの、あるか?」

普段は大雑把な癖に、弱っている人間に世話を焼くのは好きなのだろうか。

「……じゃあ、卵を入れてくれ」
面倒なので適当に答える。塩辛いものを無闇に入れられると、食欲が失せる。梅干が最たる例で、酸味と塩辛さが合わさり、リオンにとってはこれが最悪の味付けだった。
「量は?丼何杯分?」
「阿保か……普通茶碗だろう」
「いいから早く言えよ、丼?」
「1/3」
「え?何、そういう細かい数は俺、良く分かんないなー」
「……貴様、」

「たっぷり作っとくから、腹減ったら言って。いい加減食わないとやばいって。どうせ俺も食うんだから残ったって大丈夫」

そして、こうやって自分に都合の良いところで大雑把に戻るけれど、相手への気遣いをさり気なく匂わせる。
本当に、不思議な人間だ。すっかりペースに載せられて、ほだされてしまっている自分がいた。自分の捻くれた性分が災いして、つい意地を張ってしまうのだが、それすらもやんわりと受け流して笑っていてくれる。
部屋に入るなり、ベットに押し込められて布団にくるまれた。この強引さだけは頂けない、と思いながらも怠さには勝てない。おまけに、満面の笑みで「はい、どーぞ」と言って鏡を渡してくる辺り、どうやら本気で心配されているらしい。

「おい……」
「すぐ戻ってくるから、ちゃんと寝てろよー」
何かを言う暇もなく、スタンは部屋を出て行ってしまう。

……完全に子供扱いではないか。
ちゃんと寝てろだなんて、やんちゃ盛りの子供に向かって言う様な台詞だ、と少し憤慨しながらも、手に持つ鏡に映る自分に目を移す。
見たって、健康な時との違いなど何も分からない。鏡などまともに見たのは随分昔の事だ。女じゃあるまいし、自分の顔などわざわざ見たいと思わない。


思わず、鏡から目を逸らした。男とも女とも付かぬ、中性的な容姿。その所為で今まで一体何度からかわれただろう。
容姿も、そして中身も、つまり自分の事を
好きになど、なれなかった。
『その容姿を活かせ』と、ヒューゴには散々言われてきた。思い出すだけで鳥肌が立つ。それだけは嫌だと頑なに拒んだ結果、定期的に鞭で打たれる羽目になったのだと年を重ねてから気付いて、余計に虚しくなった。
耐えるしか無い自分が余りに情けなくて、惨めで、みっともなくて、せめて外ではきちんと振舞おうと努めた。けれど結局のところ、惨めな自分というイメージからはどう足掻いても逃れられなかった。


『逃れられなかった』?

何から、逃れられないーー?



その言葉が、脳裏に焼き付いた記憶を呼び覚ます。傷跡が伸びて広がって、身体中に脈を這わせていくような感覚に囚われる。



『逃げられない』?

ずっと、このまま独りで?
いつまでも、死ぬまで、ずっと?

そんなの嫌だ、怖い、誰か助けてーー




「お待たせー、ちゃんと寝てたか?」

ガチャガチャと響く食器の音、足音、その声が、過敏になった神経をやけに刺激する。大丈夫、危害など加えられない、そう分かっていても耳が音を捉えてしまう。
「あれ、リオン……寝ちゃったか?」
肩に、人が触れる気配ーー
「っ!!」
思わず体が跳ねる。違う、反応するな、こいつは違う、そう思っているのに身体が反応してしまう。
駄目だ、何とかしてくれ、抑えが効かない、駄目だ……


「……じゃないよな。エミリオ。お前の名前はエミリオ。俺だよ、スタンだよー」

エミリオ、少しふざける様に何度かそう言うと、彼は背中を合わせる様にベットに腰掛けた。
スプリングが軋む。繰り返し呼ばれる本当の名前と、背中に感じる温もりが神経の昂りを鎮めていく。
世情には疎い筈なのに、人の心の動きには聡い。無意識に詰めていた息を静かに吐き出すと、身体の強張りが解けていった。


「エミリオ、飯、食おうぜ」
本当に、不思議な奴だ。


「……丼じゃないだろうな……」
「……ばれた?」
「!?」
思わず起き上がり、スタンの方を、正確にはサイドテーブルに置かれたであろう盆の上を見た。手前に茶碗、奥には……丼……?

「引っかかった?まさか、そんな訳ないだろー。お前の分はこっち」
言いながら茶碗を手渡される。何だ、今のは。引っかかった……?

「お前……僕を嵌めたな?」
「え、何の事?早く食わないと、冷めて美味しくなくなっちゃう」
言うや否や、さっさと自分は食べ始めてしまう。その食べっぷりが見事で、少しの間見惚れてしまった。ああ、旅の間、宿の女将がこいつにだけお代わりを用意したのも、何だか分かる気がする。
「おい、れんげは?」
「自分で取れるだろー、もー、ひへへふんぐはらひふん……」
「口に物を入れたまま喋るな、みっともない!」
「あ、まだキッチンに残りがあるから遠慮しないで食えよ」
「お前はそれで足りるのか」
「これは昼飯前のおやつ的な」

一応居候の身だと言うのに、この男は遠慮という言葉を知らないのだろうか。いや、そもそもここに来るのを許してしまった自分が間違っていたのかもしれない。「あの時、面倒見てあげたわよね」と言ってルーティに二人してたかられるのだろうか。あり得る。しかも、そう遠くない未来に起こり得そうである。

「……好きにしろ」
「何か言ったか?」
「黙って食え」
「エミリオもな」

そう言うとまた一口、丼の中身を頬張る。
こいつが食べるのを見ていると、何かとてつもなく美味しい物を食べている様に見えてきて、つい釣られてしまう。それを分かっていてわざわざ一緒に食べようとするのであれば、対した策士だ。
最も、そんな事まで考えている様には見えないし、実際考えていないだろう。


「……おい」
「ん?」
「まだ残ってるんだったな」
「ん」
「夕食にするから少し残しておいてくれ」
「んー、おやつじゃなくて?」
「……お前と一緒にするな」
「ははーん、おやつはやっぱり甘い物が良いんだな」
「そういう問題じゃない!」
「はいはい、マリアンさんに頼んでおくから」
「う、煩い、黙れ、黙って食え!」
「もう食べちゃったよ、エミリオも見ただろ?丼の中は空っぽでーす」

何だ、この男は。揚げ足取りしかする事がないのか?
「……もういい、馬鹿馬鹿しい、とっとと帰れ……」
「はは、それだけ言う元気があれば、もう大丈夫かな」

……大丈夫、かな?
この男は、何を言っている?

「さーて、午後は薪割り、皿洗い、おやつを挟んで剣の稽古だな。エミリオ、折角起きて飯が食えたんだから、薬を飲まないとな」
「あ、ああ……」
「また熱が出ると、厄介だからな。こればっかりはちゃんと薬を飲んで治しておかないと」

心配、しているのか?
何を一体、そんなに……

「こっちに来た途端、具合悪くなっただろ。ごめんな。大丈夫だと思ったんだけどなあ」

ああ、そういう事か。こいつが妙なテンションなのも、その所為なのか。責任を感じる必要など無いのに、このお人好しは。


「ここに来てから、」
「ん」
「……何と言えば良いか分からないが、以前より穏やかな時間を過ごしている、と、思う。だから、謝られる筋合いはない。」
「うん。なら、良い。ごめんな、お前に気を遣わせてたか」
「だから、謝るなと」
「ごめん…じゃなくて、えー、どういたしまして?」
「……なんか、違うんじゃないか?」
「うん、なんか違うな。でも他に思い付かないし、要するに謝っちゃいけないんだろ?ありがとう、か、どういたしまして、のどっちかだな。言葉が見つからなかったらこのどっちかを使えって、昔じっちゃんが言ってた」


そう言えば、こいつの家族の話をきちんと聞いた事が無かった。
今度、聞いてみようか。どうやったらこんなに馬鹿正直に育つのか、どうやったら……僕の様な過ちを犯さずに済むのか、その違いが何か、分かるかもしれない。


「じゃ、後でな」
「ああ」

短く言葉を交わすと、奴はすんなりと部屋を後にした。馬鹿正直で、お人好し。側にいるだけで、人を惚けさせる。
変な奴だ。
けれど、そいつに少しでも救われている僕はもっと変なのかもしれない。
部屋に伸びる影の向きが、少しだけ変わった。日が少し傾いてきたからだろう。

きっと、物事は少しづつ良い方に変わっていく。あいつがそう信じているなら、僕もそう信じていないと、決意という物は案外簡単に揺らいでしまう事がある。


だから、信じてみよう。
出来る限り、心の奥底から。


1. end

陽光/2






「よーし、終わり!」
朝から孤児院の傍を流れる小川で野菜を洗っていたスタンは、立ち上がっておもむろに一つ、伸びをした。大量の野菜が入った籠の脇で、重労働の後の心地良い疲労感に身を任せてころりと草の上に寝転んでみれば。

「……あれ?」
東の空に、さっきまで無かった黒い雲が迫っている。湿った空気が雨を連れて来る気配に気付いたスタンは、迷い無く立ち上がった。
こんなところで寝ている場合じゃない。今日は天気が良いからと言って、ルーティが大量の洗濯物を干していた筈……あの量をもう一度洗いなおす事にでもなったら大変だ。籠を抱えたスタンは急いで孤児院へと続く道を辿る。
ふと思い出したのは、旅の道中、雨の降りしきる窓の外を虚ろな瞳で眺めていた少年の存在。普段の擦れた言動からは想像も付かない繊細さを内に秘めた彼は、どうやら雨に嫌な思い出でもあるようで、少しそれが気に掛かる。
(あとで、様子を見に行こう)
スタンはそう独り言ちて籠を軒下に置くと裏へ周り、物干し竿に掛かったままの洗濯物を手早く取り込み始めた。

「え、ちょっとスタン、どうしたのよ?」
振り向くと、エプロンで濡れた手を拭いながらルーティがやってきた。キッチンの窓からスタンの姿が見えて、慌てて飛び出してきたといったところか。あそこからでは天気の急変には気付けないだろう、やはり自分が早めに気付いて良かった。
「ルーティ、丁度良いところに!雨が降りそうなんだ。ほら、あの雲」
東の空を指してやると、ルーティは驚いた顔をして、それからがっくりと肩を落とす。
「うそ、さっきまで晴れてたのに……もう、やんなっちゃうわねー」
「今日、いっぱい洗濯したもんな。でも、今から家の中で干せば乾くんじゃないか?」
「乾くけど、生乾きって感じじゃない?からっと乾かないのよね、あーあ、折角晴れたと思ったのに!」
唇を尖らせて恨めしそうに言う彼女の百面相を見て、スタンは思わず笑ってしまう。すると、後ろからきつめに小突かれた。
「なーに笑ってんのよっ!」
「ううん、何でもない。それよりほら、早く取り込まないと……」
そう言いかけた時、さっきまで腕に抱えていた洗濯物を、あっさりとルーティに奪われてしまった。
「え、どうしたの?」
「いいわよ、これ位やっとくから」
「だってルーティ、これ中でもう一回干しなおすんだろ?すごい量だよ」
「大丈夫よ、子供達駆り出せばすぐ終わるから……それより、」

そう言って俯いたルーティは、瞬間言葉に詰まっているように見えた。
「……あいつのとこ、行ってあげてよ。天気も悪くなってきたし、今日診察あるんでしょ?」
努めて明るく言う彼女の少し影のある笑顔は、無理をしているのが丸分かりだ。ちくりと胸が痛むのを感じながら、それでも彼女を困らせぬようにスタンはにっと笑ってみせる。
「そっか、流石ルーティ!気を遣ってくれて、ありがとうな」
「や、やめてよ、そんな……あたしの方こそ、ずっとあんたに任せっぱなしで……」
彼女は傍目から見れば思う存分言いたい事を言っている様に見えるが、その裏でつい自分を責めてしまう傾向がある。今も神妙な面持ちでいる彼女は、きっと物事を深く考えすぎてしまっているのだろう。
「……そんな事、気にしてたんだ?」
スタンは苦笑しながら、彼女の頬に指先だけでそっと触れた。ふっくらとして仄かに上気した白い肌、柄にも無く弱気な物言いに、愛おしさを感じながら。
「……何となく、気まずいんだろ?見てれば分かるよ」
「ごめん……けど、何て話しかけたら良いか、分かんないのよ……」

何とか一命を取り留めた直後のリオンは、抜き身の剣の様に誰も寄せ付けない、張り詰めた空気を纏っていた。それこそ、実の姉であっても容易く近付けない程に。スタンには、彼がそうする理由が容易に理解できた。
彼は、元来とても優しい性格なのだ。たった一人残された肉親である姉を、自分の犯した罪の所為で不幸にしてしまったら。そう考え、周りの人間を守るために自らを遠ざけた。本当の名前も、ルーティとの血縁関係も周囲には明かさず、どんどん孤立していって……結果、彼は自らの心を壊してしまった。
身を切るような思いで自分を守ろうとした弟がそんな状態になってしまい、力になってやりたいのにどう接すれば良いかも分からず、それでもルーティはスタンとリオンをクレスタの街へ迎え入れてくれた。それだけで、彼女の気持ちは二人に十分伝わっていた。

けれど、本人はやはり不安なのだ。あの時こうすれば良かったとか、今のリオンに自分がしてやれる事は他にないのか、と考えてしまうのも無理は無い。

しゅんとしてしまった彼女を、周りに誰も居ないことを確認して、後ろからそっと抱き締めた。右腕で体を抱いて、左手は彼女の細く柔らかい指に絡める。彼女の髪にそっと額を乗せると、この街で鮮やかに咲く花の香りがした。華奢な体は、スタンの腕の中にすっぽりと収まってしまう。
「ルーティ、ありがとう。俺たち、他に行く当てが無かったから、本当に嬉しかったんだ……ごめんな、今までリオンのこと独り占めしちゃって」
耳元で囁くと、彼女は無言の内に、こちらへ体重を預けてきた。これが普段は蓮っ葉な彼女の、心を許している時のサイン。時折見せる、酷く傷付いた様な表情と弱気な発言は、彼女自身もまた今の状況に心を痛めていることの証だ。
「いいのよ、あたし、いっつも余計なこと言っちゃうし。それに、あいつのことはこれからいっぱい可愛がってやるんだから……さ、ちゃっちゃと片付けちゃうわよ!」
「ん、そうだな。じゃ俺はリオンのとこに行ってくる」
「はーい、よろしくねー!」

珍しく弱気になったかと思えば、途端にいつも通りの蓮っ葉な物言いが戻ってくる。こういう所もやはり姉弟だと良く似るらしい。普段は強がっているくせに、時々その繊細な感受性が顔を覗かせる。だから、スタンはこの二人を放っておけないのだ。

(幸せに、してやりたいんだ)
ここまで強い気持ちを抱いたのは、初めてだった。二人が今までどれほど願っても手に入れられなかったもの……温かい愛情、家族の絆、心の底から安心できる居場所、甘えられる存在……当たり前な筈なのに二人には与えられなかったもの、全てを自分が与えてやりたい。
心からの笑顔を見たい、と思った。辛い事が多すぎて、心引き裂かれるような事ばかりだったから。二人がどれほど傷付いてきたか、間近で見ているから。エゴだと、単なる自己満足だと言われたって良い。それでも自分は、この二人が心の底から笑い合って、抱き合って、『本当の姉弟』に戻れる日を待ち望んでいる。

雨が、ぽつり、ぽつりと降り始めた。
玄関を抜けて二階へ通じる階段を上りながら、窓の外を見やる。ガラスに水滴がぱらぱらと落ち始め、外が急に暗くなる。空は一面分厚い雲に覆われ、陽の光がはたと途絶えた。

『絶対に、一人にしてはいけないよ』
まだリオンが臥せっている間に、クレスタの医者はそう言った。周りから見れば取るに足らない些細な事、何気ない日常のことでも、どれが引き金となって不安定な状態に陥るか分からないから、と。一度混乱してしまうと歯止めが利かなくなり、衝動的に自分を傷付けてしまう可能性もある、とも。もちろんそんな事はさせないつもりだし、自分とルーティとマリアンと、三人掛かりでリオンを看ていれば、その兆候にはすぐ気付ける筈だ。
それでも、例えばこんな風に分厚い雲に覆われた空は、かつて外殻にこの大地が覆われていた頃の景色を思い出させるのではないか、と内心不安で仕方が無い。

(マリアンさんには、分からないこともある……)
浮上したダイクロフト、そして外殻を目にした時のリオンの、絶望の表情。それから後、彼がどれほど自分を責め苛み苦悩したか、その姿をマリアンは直接見ていない。リオンの方も彼女に余計な心配を掛けまいと、何も話そうとしない。彼にとってマリアンは共に戦う仲間ではなく、あくまでも守るべき存在。そして実の姉であるルーティも、彼の中では恐らくマリアンと同じ立ち位置に分類されている。
自分の身にのし掛かった重圧、罪の意識。人を傷付けてしまったという事実に心を痛めていた彼の事だから、きっとそれらを打ち明ける事で二人に要らぬ負担を強いるのでは、と必要以上に心配しているのだろう。

助ける側の人間が倒れてしまったら、助けられた方は悔やんでも悔やみきれない。
それを身を以て実感しているいるリオンが相手だからこそ、自分は絶対に倒れるわけにはいかない。
今の彼は、他人を傷つけてしまうことに酷く敏感だ。もし今、彼があの戦いの記憶に囚われてしまったら、そこから彼を引き摺り出してやれるのは自分しかいない。

階段を上りきり、自分と彼に与えられた部屋の前に立つ。ドアを控えめにノックすると、柔らかな女性の声で返事が返ってきた。
「マリアンさん、リオン、起きてますか?」
ドアを開けると、ベットで上半身だけ起こした彼が声に反応してこちらを向いたが、返事は無い。血色もあまり良くないし、心なし硬い表情をしている。これは嫌な予想が的中したな、と思いつつスタンは部屋へ足を踏み入れる。
「具合、どう?まだ本調子じゃなさそうだけど」
「……雨、降ってきたか」
「うん、今急いで洗濯物入れてきたところ。急だよな、びっくりしちゃった」
「まあ、それは大変……私、お手伝いにいってきますね。ルーティさん一人じゃ、大変でしょうし」
「あ……ありがとうございます、マリアンさん」
「いいえ、ついでですからお二人にお茶も淹れてきますね。ごゆっくり」

穏やかな笑みを絶やさぬまま、マリアンは階下へ降りていってしまった。その後姿を見送ったリオンは、恐らくスタンが来るまでずっとそうしていたのだろう、虚ろな瞳で窓の外へとまた目をやる。微かな雨の音しか聞こえない、静かな部屋。見える景色は一面雲に覆われて夕暮れ時のように暗く、窓から入る光は仄かに青い。

「今日さ、お医者さんが来るんだ」
外の景色を眺めながら、スタンはそう呟いた。
「……医者、」
「お前、まだ会ってなかったよな……いや、会ったんだけどさ、あの時は寝込んでて意識朦朧としてたから覚えてないよな。でも、今日は俺も一緒にいるからさ」
安心しろよ、と言いながら頭に手を載せると、彼はぱち、と瞬きをしてからはっと顔を上げ、少し恥ずかしそうにその手を払った。生気のある表情が戻りつつあることに、スタンは内心ほっと胸を撫で下ろした。
「別に、一人でも大丈夫だ」
「そうか?何か不安そうな顔、してるけど」
「……どんな人間、だった」
本人は自覚していないだろうが、言葉のぶっきらぼうさと裏腹に弱気な物言いがツボに入ったスタンは、思わず吹き出しそうになったがそれをぐっと堪える。
「そうだな……ダリルシェイドのお医者さんと同じくらい物知りで、あとお茶目で面白い人だったよ。クレスタの皆に愛されてる先生って感じだった。ルーティも掛かった事あるってさ」
「……それだけじゃ、分からん」
「うーん、会えば分かるよ。悪い人じゃないし、大丈夫。」
「本当か……?」
心の片隅に残る、見知らぬ人への恐怖はやはり拭えていないのだろう。こちらを見上げた彼の表情はまだ少し不安そうだ。
「うん。フィルさんっていうんだけど、あの人も前は国際医師団にいたんだって。その時の話も色々してくれて、でも気取った感じじゃなくて、楽しい人だよ」
すると、何か言いたそうにリオンが小さく首を傾げた。
「何故、そんな経歴の人間が、こんなところに……?」
「さあ……それはリオン、自分で聞いてみた方が」

早いんじゃない?と言い掛けた時、ノックの音とほぼ同時にドアの開く音。振り返ると、スタンの見慣れた白衣姿の男性が、往診用の大きなトランクを片手に立っていた。

「おっはようさーん、お、起きてるじゃないの。しかしまあよく寝てたね、まるで徹夜明けみたいな熟睡っぷりだったけど、ご機嫌いかが?」
突然の来訪に、いきなりのマシンガントーク。固まってしまったリオンが、一呼吸置いて漸く目を見開いた。
「……!?」
「あれ、こういうノリはあんまり?まだ若いんでしょ?」
「!!!……す、スタンっ……」
「ははは、大丈夫だって!……何なら俺、ずっとここに居た方がいい?」
「う……それは……、」
完全に面食らってしまったリオンの様子を見て楽しそうに笑うと、白衣の男はスタンに握手を求めながら話し始めた。
「ごめんごめん、悪乗りが過ぎたね。俺はフィル。若く見えるけど、これでも一応この街で唯一の診療所の所長を務めてる。まあ宜しく頼むよ、エミリオくん」

初対面の人間の口から、誰も知らない筈の名を呼ばれ一瞬目を丸くするリオン。
それでも怯えたりしないのは、やはりこの医師の人柄が成せる業なのだろう。スタンは初めて出会う二人の様子を、一歩引いて温かく見守ることにした。


2. end




to be continue






inserted by FC2 system