Copyright (c) SampleCreative.ltd, All Rights Reserved.

おじおい・ジュカイSS纏め
  





その少年とさして齢も変わらぬ風貌の青年は、何も言わずただ静かに、幼い横顔を見つめている。




予感




誰にも、理解などされなくて良いと思った。
これまで独りで生きてきた人間に、その寂しい胸の内に、いきなり他人を招き入れるというのも些か無理がある。
青年は己の性癖の醜さを良く知っていた……知っていた、などという表現では生易しい。
つまり言葉を変えれば、打ちのめされていたのだ。

――何も知らない人間を捕まえて、自分にとって都合の良いように物事を教え込んで――

リオン=マグナスは、そういう人間だった。
端から他人を蔑み、あわよくば蹴落としてやろうとする類の。
だが今になって漸く、青年は過ちに気が付いたのだ。
偽善者と嘲笑い、散々貶めた筈の男が後に成し遂げた偉業。
それを反吐が出ると言って切り捨てた己の卑しさ。

だからこんなにも、カイルという少年のことが気に掛かる。
嘗ての自分のような人間が、気紛れにこの子供を毒牙に掛けでもしたら――それは何も、今この時代に存在している者だけに限った話ではないのだ。

「……カイル、何もそんな」
「黙ってて」
勉学に異様なほど苦手意識を抱いている少年が、何故か今夜だけは下の階の書庫から自ら本を携えてきて、食事の前の一時を専ら読書に費やしている。
伸び切っていない上背、まだ幾許か頼りないなで肩。
この幼い身体のどこにそんな力が秘められているのか、少年は戦となると案外強引に、それこそ力技で敵を薙ぎ払ってゆく。
戦に於いてはやや不利な身体付きである青年の、痩躯と柔軟さを生かした戦い方とはまるで正反対だ。
内に秘めるものが違えば、同じような体躯でも戦い方はがらりと変わる。
それが人を人たらしめる所以であり、これこそがジューダスの最も気に掛かっている部分でもあった。
何故少年がこの本を選んだのか、想像に難くない。
幾つも豆が出来た手の平で静かにページを捲り、普段ならものの一分も持たず陥没するであろうカイルが珍しく熟読している、書物のタイトル。

「神の眼の、騒乱……」
青年は、窓際のベッドに腰掛けたまま片膝を抱え、蚊の鳴くような声で独り語ちる。
その声は余りに小さく、分厚い書籍に読み耽っているカイルの耳には届かない。

『ジューダスって、自分のこと全然話さないんだもんな』
口を尖らせて、やや乱暴に扉を閉めて。
一度決めたことは、誰に何と言われようと絶対に覆さない。
あの頑固さは確実に両親から受け継いでいるに違いない、と青年は自らを棚に上げて思った。

ジューダスの正体を知ってからこっち、街でリオン=マグナスの酷評を耳にする度カイルは不快そうに顔を歪めた。
そして時々、もう我慢できないという風にジューダスへ漏らすのだ。
何で、良いように言わせておくの。
それは大抵眠りに就く前、お互いベッドへ入った後であったり、或いは入れ替わりに湯浴みへと向かう青年に対してであったり。
何にせよ、口にしてしまった後の少年は決まって何時もばつが悪そうな顔をするので、ジューダスの方もそれ以上何も言わずにいた。
言うべきことと、そうでないことの区別くらいは付く。
事実カイルの方もその先を自ら尋ねようとはしない。
義憤に駆られながらも、青年の意思を尊重している。
だったら黙っていた方が心を乱さずにいられるだろう。
自分も、カイルも。

だが今夜ばかりはそうもいかなかった。
ハイデルベルグとセインガルドの丁度中間地点にあるこの宿場町は普段から学生の往来が多いようで、彼らに影響を受けたのか住民達も基本的な素養を持ち合わせていた。
小さな町の至る所で散見される専門書。
その中でも一際カイルの目を引いたのがこの、一見するとまるでどこぞの信仰の聖典かと思える程分厚い書であった。

自分に向けられる幾許かの執着のようなものが、怖かった。
カイルは、きっと純心なのだ。
過ちを犯した人間にも何か訳があったに違いないと、優しさを捨てきれない。
それが少年の何物にも代えがたい賜物であり、また時に彼の心を乱す要因ともなった。
あの子供は今頃きっと、必死で考えている。
リオン=マグナスの凶行の理由を。
その本心を。
目の前にいる青年の無欲な素振りとは似ても似つかない、どう考えても別人としか思えない、その訳を。

――そんなもの、在る筈がない。
ジューダスは知っていた。
そしてまた、打ちのめされる。
この時代に蘇り、“古都”と呼ばれるようになってしまった街の現状を己が目で見て。
震える手で、マントの内側に携えていた剣を隠し、仮面を手に取り。
ハイデルベルグにこの手の書の貯蔵庫があると聞き及び、足を向け、そこで騒乱から十八年もの月日が過ぎ去っていたことに戦慄し。
己の正体を隠していたのは、何もかもが怖かったからだ。
それが現状を知り、漸く真っ当な罪の意識が芽生え始め、やがて不用意な争いを避けるべきだという判断に至った。
自然の摂理にまるっきり反する形で蘇らされたのだから、或いは何か果たすべき役割があるのかもしれない。
恣意的な何かが見え隠れしている今現在に於いて、自身の意思や感情だけで今後の行動を決めてしまうことは出来ない。
俄かに襲い掛かる罪の意識に重く蓋をして。
これが本来、人間の持ちうる良心というものかと愕然とし。
自死をも辞さぬつもりで一夜を明かした後、朝日を見つめながら一つ、明確な決意を胸に秘めた。

……だが逆を言えば、それまではずっと人目を避けて逃げ回っていたことになる。
そんな自分に、まだまだ青い正義の塊であるカイルが納得するだけの理由など、見出せるとはとても思えない。

暴かれることは、もう怖くない。けれど。
人の良いこの子供の純真な思いを、愚かな過去の自分が裏切り、傷付ける。

これまでのところカイルは、ジューダスという男に全幅の信頼を寄せている。
そう仕向けたのは他でもない、自分だ……だがいずれは、リオン=マグナスを糾弾せねばならなくなるだろう。
そうでなければ歪められた歴史を元に戻すことなど出来ない。
罪人を赦すということはつまり、平たく言えば歴史の改ざんをも受け入れるということであり――また少年の父、スタンの下した英断をも否定するということだからだ。

この世の人間全てが必ずしも、お前と同じ良心を持ち得るわけじゃない。
それを面と向かって言ってやれないのは、仮に事実を知って少年が深く傷付いたとしても、最後まで責を担えないから。
「……大切な、人」
カイルの声が、沈んでいる。
「守るためだったって、母さんが言ってたような気がして。ここにもやっぱり、そう書いてある」
自身の爪先をじいっと見詰めていた青年は、たっぷり間をおいてから、伏せていた長い睫毛をほんの少しだけ上げる。
漸く覗いた白藤色の瞳には、生気があまり感じられない。

傷付くだろうか。
失望、するだろうか。
そんなこと、僕が考えたって仕方が無いというのに。
この仮初めの生がいつ終わるかなんて、誰にも分からない。
在るべき歴史を取り戻してしまえば、エルレインに蘇生された人間などいずれ消滅する。
だから僕には、結局のところ何もしてやれない。

「何だろう……なんか、すごく悲しい」
仰向けに寝転がって両腕で持ち上げていた分厚い書を、ページを開けたまま柔らかな胸へぽすりと置き。
重みで潰れた肺の空気をそのまま吐き出すように、少年は呟く。
その横顔はいつもの快活さとは程遠い。
まるで在りし日の故郷を懐かしむように目を細め、それから眉尻を下げて。

「助けてもらった人はきっと、自分のせいで相手が死んじゃったって、ずっと後悔するんだ」
「……、っ」
少年が誰にともなく呟く言葉を耳にして、青年はどくり、心臓が大きく脈打つのを自覚した。
思わず見開いてしまった瞳を見られたくなくて、また俯く。

何故今、そんなことを――それにこの胸の痛みは、一体どこから。
勿論、全く考えなかった訳ではない。
遺された者の気持ちを思えば、己の生を投げ出すような生き方はすべきでない。けれど。

(僕は、普通の人間じゃない)
理由はどうあれ、人を殺した。
それも一人や二人じゃない、世界を揺るがしたのだ。
ましてや仮にも軍に身を置く者が上官を手に掛けることなど、絶対にあってはならない。
その禁忌を犯したと知ったら。
憐憫から給仕役を引き受けた彼女へ、この汚れた命と引き換えに生きることを強制し、その心に一生残る傷を負わせ。
幾ら優しい彼女と云えど、きっと僕を糾弾するに違いない。
恨むなら未だしも後悔なんてしないだろう、いや、して欲しくない……


「大切な人……せっかく守ったのに、二度と会えなくなる。そんなのもう、見たくない、」
だって、母さんは。

そう零した後、少年の鮮やかな海色の瞳が急に潤んで、淡い金の睫毛を濡らす。
瞬きする度こめかみを伝う雫と、小さくしゃくりあげる声。
母の心痛を思って涙する子供は、父をとうの昔に亡くしたと知った時も決して誰かを責めたりしなかった。
ただありのまま事実を受け入れ、罪の意識に苛まれてきた男の心を、たった一言『ありがとう』の言葉で救って。

「……リオン=マグナスを、許すのか」
「許すとか許さないとか、関係ないよ」
零れる涙を手の甲で拭い、少年は胸に圧し掛かっていたままの書籍を閉じて、ゆっくりと身を起こす。

「もう誰にも、こんな思いしてほしくない……ジューダスにも」
そして今、嘗て裏切り者と呼ばれた青年をも責めたりはしない。

……幼い優しさが、ゆっくりと胸を満たしてゆく。
細く伸びた脚を床へ下ろし、素顔を隠す仮面に手を掛け。
ベッドで放心したままの幼子の真横に、並んで腰掛ける。

健康的な褐色の肌に、透けるような色の髪。
まだ幾らか丸みを帯び、子供らしさを際立たせる輪郭。
幾らか背を丸めて、赤く潤んだ瞳を見せまいとして。
「だってこんなの、悲しすぎるよ」
「カイル」
それきり俯いたままの少年へ、青褪めた指がおそるおそる伸ばされる。
睫毛に掛かる前髪をそう、と掻き上げ、指の腹で額に触れ、なだらかな曲線を労わるように撫でた。
自身の掌より、幾らか体温が高い幼子。
好いては、ならない。
如何なる幸福をも自分は、享受してはならない。
そんなことは嫌という程分かっている筈なのに、理性が保てない。
冷静では居られない。

「……カイ、ル」
金の癖毛に紅藤色の指を差し入れ、青年は子供の背中に腕を回して思い切り掻き抱く。
一瞬戸惑いを露わにした少年もやがて目を閉じ、痩せた背に手を回して彼の無言の訴えへ、静かに耳を傾けようとする。

悲しみは時に、連鎖する。
胸の奥深くへ仕舞い込んでいた感情を剥き出しにされて、これ以上一人で耐えられないと思った。
少し前の自分であれば、気付かぬ振りをして受け流していただろう。
だが今それが出来ないのはこの子供の、どんな犠牲をも厭わず、時に本人すら共に傷付くであろう優しさを知ってしまったからだ。

褐色の広い額へ、冷たい薄桜色の唇が音も無く触れる。
献身には、献身を。
同じ苦しみを分かち、受け入れ。
けれど今はまだ、『その先で待つもの』について考える時ではない。

「……、」

不思議な感触を疑問に思ったのか、少年が不意に目線を上げた。
青褪めた顔をしながら、それでも穏やかな笑みを湛えたままの青年を間近に捉え、カイルは僅かに眉を寄せる。
まるで、痛みを堪える様に。


「やっぱり……自分のことはなんにも、言わないんだね」

それは少年の本能が、ジューダスという人間の、奥底に眠る不吉のようなものを予感する瞬間であった。



予感   end











捏造現パロSSです!
まずは以下より設定のご説明をお読みください
(冬コミ新刊と同一の設定です)

スタン:ルーティと結婚、彼女との間に息子カイルを授かる。
ルーティ:夫と息子を愛する良き妻であり、リオンの姉にあたる。
リオン:幼名はエミリオ・カトレット。現在はリオン・マグナスとして生活している。
  後に『日曜朝の7:30から放送されている子供向け戦隊もの
  “生体兵器ソーディアンズ5”に出てくる“根暗マン・ジューダス”に似ている』という理由で
  幼年の甥っ子からジューダスという不名誉な渾名を授かった。
  因みに本人は満更でもない様子。
カイル:スタンとルーティの間に生まれた息子。
  剣道に励む健全な青少年。
  時々叔父の家へ勉強を教えてもらうという名目で遊びに来る。
  だが実の目的は大抵“美味しいお菓子”や、“ふわふわのオムライス”等の、
  胃袋に直結することである場合が多い。
  近しい人や物にすぐ渾名を付ける癖がある。
  数字とカタカナに滅法弱い。

年齢差:本編軸(D,D2)準拠
居住地:ダリルシェイド都内(多分)
幾分ふわっとした設定ですが、それでもOK!という方のみ下へお進みください






もしもその壱・甥っ子三歳半






「……、寒い……」

駅の階段を足早に降りるとリオンは誰にともなく呟き、マフラーの隙間から忍び入る冷気に身を震わせ、コートの襟に指を掛け引き上げた。
吐く息は白く煙り、濃紺の澄んだ夜空へ音も無く溶けてゆく。
年の瀬を迎え、人気の無い街を煌々と照らすコンビニエンスストアの角を曲がり、姉夫婦の住む家までの道を足早に辿りながら彼は悴んだ指先をそっとポケットに滑らせ、じゃらりと音を立てる冷たい硬質の感触を握った。
エントランスの階段を登り、集合ポストからエレベーターホールの前を通り、ずっと向こうまで同じ扉が等間隔で並ぶ廊下を真っ直ぐ突き抜け、見慣れた表札の前でポケットから鍵束を取り出し。

「あ、おいたん! おいたん、きた?」
がちゃり、と錠を回す音に気付いた幼子の甲高い声が小さく漏れ聞こえる。
扉の向こう側で甥っ子がはしゃぐ姿を想像したリオンは、知らず頬を緩ませたまま静かに玄関扉を引いた。

「おいた! おいたんー!」
「リオン! お帰り、随分遅かったなー」
彼の姿を確認した幼子が、フローリングの廊下を勢いよく駆けてくる。
その後ろに続く幼子の父親は既に酒が入っているのか若干呂律が回っていない。
カイルは素足のまま玄関へ降り、リオンの足にその短い両腕できゅっと抱き付いて頬を摺り寄せたが、スタンにはそれを止めようとする気配すら無い。
「ああ……、カ、カイル。靴を脱がせてくれないか……」
「ほら、カイル。おいたん、靴脱ぐってさ」
「ううー、いやあー」
「また後でぎゅってしてもらおう、な?」
「うん……」
リオンがそう口にして漸く気付いたスタンが、カイルを引き剥がしてひょいと片腕で抱き上げた。
「さ、早く入れって。寒かったろ?」
何時もの光景、何時もの会話。
だが、只々与えられた責務をこなすだけの無機質で息の詰まる様な生活からやっとのことで抜け出した彼にとって、こうして“家族の温もり”というものに触れることは何よりの癒しであった。
「最近、また忙しそうだな。ちゃんと食ってるか?」
「……まあ、それなりに」
「今日はルーティが、年越しそばに天ぷら乗せてくれるってさ。海老と、南瓜と、後はかき揚げだって。リオン、どれ食う?」
二人の結婚当初はこの男がルーティ、と名を呼ぶ度、姉を盗られたという事実を突き付けられているような気がして堪らなかった。
今となっては大分慣れたが、スタンが何気なく姉の名を呼ぶ度一瞬胸がちくりと痛むのは変わらない。
「……どれでも、いいさ」
姉さんが作ったものなら何だって、と言い掛けたのをぐっと飲み込むとリオンは廊下へ足を踏み入れる。

「エミリオ!遅かったじゃない、お汁粉が冷めちゃうわよ」
「……お汁粉?」
「そ! 今年はカイルもお餅食べられそうだから、折角だし大鍋で作ったのよ」
台所から響く声にリオンは思わず顔を上げる。
と、ルーティがエプロンで手を拭いながら居間へ出、彼の薄い背中を押して洗面所へ押し込んだ。
「ほら。手洗って、うがいして、それからおこた入って温まる!」
鏡越しに目が合った姉は、まるで小さな子供に対するようにリオンへ言い聞かせ、それからすぐに姿を消してしまう。
僕とカイルと、扱いがまるで同じじゃないか。
少しの理不尽さを感じながらも姉の言葉に逆らえない彼は、言い付け通りにそれらを済ませる。
顔を上げ、鏡に映る仏頂面に思わず苦笑し……それから冷え切った身体を温める為にそそくさと彼は居間へ戻った。
「おいたん、おかえり!」
「……ただいま、カイル」
目を輝かせて見上げる甥っ子に、先程までの仏頂面が出ないようにと努めて優しい表情を作りながらリオンはしゃがみ込み、その頭を撫でてやり炬燵へ入る。
するとスタンがカイルをひょいと持ち上げて、リオンの下腹部にぽんと乗せた。
「カイル! おいたんな、さっきまでお外に居たから寒いんだってさ。だから、ぎゅってしてやったらきっと喜ぶぞ?」
「うん、いいよ!おいたん、さむいの?」
カイルは笑顔を振りまきながらきょろきょろと辺りを見回し、それからリオンをじっと見上げ、胸に顔を埋めて抱き付いてくる。
暖房の効いた室内で遊んでいたからだろうか、少年の薄い色素の癖毛は汗で額や首筋に張り付いている。
リオンはそっとその髪を払ってやりながら、まるで湯たんぽの様に発熱する甥っ子の背中へ両手を添え、自分の方へ引き寄せた。
「……カイルが居れば、寒くないよ」
「でしょ! とうさんも、おなじこといってた!」
「な、凄いだろ。カイルと一緒に寝ると、暖房なんて要らないんだぜ」
「それは、そうだろうな……」
急に体が温まった所為か少しぼんやりする頭で、甥っ子を抱き締めたままリオンは相槌を打つ。
と、静かな街で不意に響くサイレンで、カイルがぱっと顔を上げた。
「タコパー、はしってる」
「ああ、ほんとだ。何処かで事件でもあったのかな?」
腰を浮かしてテレビの音量を下げるスタンは、どうやら息子に言われるまでサイレンには気付かなかったらしい。
だがそれよりもリオンには気になる事があった。

「……ちょっと待て。タコパー、というのはまさか……」
「パトカー?ああ、その内言えるようになるよ、大丈夫。じっちゃんが言うには俺もこんなんだったらしいよ」
何事もなかったかの様に笑うスタンにはまるで深刻さが感じられず、リオンはまさか、と思わず頭を抱える。
自分の記憶が確かならばこの子供は三歳半、来年四歳を迎える筈。
スタンの“その内”というのは一体何時頃なのだろうか、それを思うとリオンはぞっとした。
「……分かった。僕が教える」
「え、わざわざ?」
「お前ら二人が危機感に欠けているんだ……保育園、幼稚園、小学校へ行ってそんな言い間違いをしてみろ。あっという間にからかわれる対象になる」
「そんなに心配しなくても、別に……」
「甘い! お前はカイルの将来が心配じゃないのか……?!」
「そ、そんなことは無いけどさ」
義弟の剣幕に押され気味のスタンが、目を逸らしテレビの音量を元に戻しながら答えた。
リオンはふん、と鼻を鳴らし、それから甥っ子と目を合わせ、にこりと笑ってやる。
「カイル、さっきのパトカー、もう一度練習してみよう」
「? うん、良いよ!」
「パトカー」「タコパー」
「……パ、パトカー」「タコパー!」
「……、…………」
(だ、だめだ)
きょとんとした目で見つめられ、リオンは二の句を継ぐことが出来ない。
「リ、リオン。別に無理しなくて良いからな?」
思わず言葉を失う義弟にスタンが声を掛ける。
だが彼ははっと我に返り、それから悔しそうに唇をへの字に曲げ、矢継ぎ早に甥っ子へ尋ね始めた。
「お月様」「おつしかま!」
「とうもろこし」「とうもころしー」
「さかな」「かささー!」
「……蚊に刺された」「かににさされた?」
「蚊に、さされた」「かにに、ささされたー!」
「…………、カイル、」
「おいたん、どうしたの?」
もう一度ちゃんと聞くんだ、そう言おうとしてリオンは口を開く。
だが幼子の青く、丸い瞳がうるうると少し不安気に見開かれているので彼は口を噤む他なかった。
「いや、何でもない……良く出来たな、カイル」
頭を撫でてやると嬉しそうに目を細めて笑顔を見せる甥っ子の、この笑顔には敵わない。
リオンは胸の奥を揺さぶられる様な懐かしい感覚に思わず目を瞑り、もう一度幼子をきゅう、と抱き寄せた。
事の一部始終を黙って見ていたスタンが、お盆を持って居間へ現れたルーティに目配せをして。
音を立てずにそっと二人の横へ忍び寄ると、ルーティはお盆をちゃぶ台へ乗せながら、カイルを抱き締め俯いたままの弟へ小さく耳打ちする。
「“叔父さん”、英才教育は上手く行ってる?」
「僕の血を分けてやりたい……」
「ばかね、あんたの血はもう入ってんのよ」
「……くそ、もう少しカトレットの血が強ければ……」
「あっはは、あんたそれ本気? 全く、すぐ真に受けるんだから……!」
普段は誰よりも理屈っぽく冷めたリオンが、感情的にそんな事を言うなんて。
何時も張り詰めた雰囲気を纏う彼が甥っ子の存在によって少しだけ打ち解けたのを目の当たりにし、ルーティとスタンはもう一度顔を見合わせて密かに笑った。
だがそんな事にも気付かずリオンはやれやれ、という風に溜息を吐き、翻弄された気持ちを落ち着ける為、膝の上に収まったままの甥っ子の髪へ顔を埋める。
撫でて掻き混ぜ、幼子の額に右手、腹部に左手を回して、きゅうーと抱きすくめた。
きゃっきゃとくすぐったがるカイルに構わず、リオンはその手を放さないままだ。
「カイルは姉さんみたいにいじわる言ったりしない、よな」
「いわなーい! はなしてよ、くすぐったいよ」
「……嫌だ……もうちょっとこのままで、」
「くすぐったいよー、おいたん! トイレー」
唐突に出て来たトイレという単語で、リオンは直ぐに何時もの真剣な顔付きに戻り、手を放してやる。
「……分かった。行って来い」
「おいたんもいっしょ、まえいって! くらいの、やだ」
「分かった分かった……ほら、これで明るい」
「ううん、でも……おばけ、いない?」
しきりに手を引く甥っ子につられて炬燵を出たリオンは廊下の電気を付けてやるが、カイルは彼の足に絡み付いたまま一向に離れようとしない。

(そうか、怖いのか)
そう言えば自分も、子供の頃は暗い場所が怖かった。
カーテンを閉め切ると部屋は真っ暗で、隙間からこの世のものでは無い何かが現れるのでは無いかと怖くて……何時も眠る時は少しだけカーテンを開けていた。
あの頃は、馬鹿馬鹿しいと一蹴され切ない思いをしたものだった。

「……ほら、」
幼子の前にリオンは自身の手をそっと差し出してやる。
すると、甥っ子のぷっくりとした紅葉の様な手がすっと彼の手を握った。

(ああ、懐かしい)
こんな風に甘えられる人など自分には居なかった筈なのに、何故懐かしいと思うのか。
それすら分からないまま彼は甥っ子の小さな手をきゅっと握り返して、手洗い場まで付いて行ってやる。
「自分でできるのか?」
「ひとりでできるもん!」
「そうか……じゃ、」
「ああーっ!」
「な、何だ……」
「おいたん、かえっちゃだーめ!」
「……は?」
「ここにいて! あっちいっちゃだめ、ちゃんとまってて」
「…………は……?あ、ああ……」
「ぜったいだよ、だめだからね」
何度も念押ししながら背伸びしてドアを閉めようとする、その幼子の必死さがいじらしくて、愛おしくて。
「…っ、ふふふ……分かった、ここに居るから早く済ませて来い」
「ぜーったい、いっちゃだめだからねっ!」
思わず零れた彼の笑みに、自分が笑われたのだと勘違いした幼子は頬を膨らませながらドアの向こうへ消えていく、のだが。
「おいたん、いる?」
「居るぞ」
「ほんと?」
「……ああ、居る」
ごそごそと物音をさせながら何度も聞くカイルに、リオンは飽きることなく答えてやる。
「ねー、おいたん」
「何だ」
「おいたんって、なんでおいたんなの?」
「……そうだな……お前の母親が、僕の姉だからだ」
「ね、おいたんは、おいたんってなまえなの?」
(何だ、その理屈は)
「……違う」
「じゃ、なんていうの?」

幼い子供は時として、大人では想像も付かない理論で物事を結び付けようとするものだが――微笑ましい、可愛らしい。
そんな気持ちと同時に胸に湧き上がってくる歪な感情に、知らずリオンの頬が上がる。

そう、この子供は無垢で真っ新で、まだ何も知らないのだ。

「……カイル、お前の好きに呼べ」
常識も経験も持たず自由な感性で素直に受け取るこの幼子なら、自分のこの問いを不審に思う筈もない。
「えー? うーん、じゃーねー……じゅーだす!」
「じゅー、だす……?」
「うん! おいたんってねくらマン・じゅーだすにそっくりだもん!」
「……そうか。なら僕は今からジューダス、だな」

手洗い場から勢いよく出て来た甥っ子が跳ねるように言うのを眺めながら、彼は新しい名を何度も脳内で反芻して只々ほくそ笑むのだった。


 ―――――――――― 


「へんしーん! てやー! はっ! ソーディアンキック!ディムロスパーンチ!」
「あ、ああ……い、痛い、うう……」
「“じゅーだす”はそんなこと言わない!“どうせぼくなんか”ってさけんで、ネクラオーラだすんだよ! それで、バカなっ!っていいながらたおされるのー」
「……? は……、え?」
「なあなあカイル、父さんも! 父さんも仲間に入れてくれよー」
「えー、とうさんのひげがじょりじょりしてやだー」
「な、何それ?!」
「うーん、じゃ『おひげのクレメンテ』かなー」
「ええー?!し、渋くて格好良いけど、幾ら何でもちょっと年取りすぎじゃないか?」
「だってとうさんはおじさんだもーん!」
「ガーン! 何それ……」
(この男、わざわざ口でガーンと言った……)
「ぷぷっ、おひげのクレメンテさん! 熱燗、温まったわよ」
「ル、ルーティまでそんなこと言うのかよ……!」
大分酒が回ってきたスタンがルーティに泣き付く振りをしてみせれば、彼女は幸せそうに笑う。
お父さんも仲間に入れてあげれば?とカイルの頭を撫でてやる姉の横顔に一瞬、未だ見ぬ母の面影を見出だしたような気がして。

何が何だか良く分からないけれど、こんな温かさを感じたのは久し振りで。
(悪くない、かもな)
「あ、雪!」
ベランダにちろちろと落ちてくる白い結晶を目敏く見つけ、カイルが声を上げた。
甥っ子の指差す方を見れば、掃き出し窓の硝子が部屋の中との温度差で一面白く曇り始めている。
こんな風に人の温もりを感じながら年を越す――当たり前のことかもしれないけれど、穏やかで、優しくて。

(ああ、この温もりを手放したくないな)
先程まで部屋中を飛び回っていた筈なのに、急に膝の上でうとうととし始めたカイルの髪へ彼はそっと指を差し込む。
額を撫で、それからうつ伏せになろうとする幼子の頬を指の甲でそうっと撫で。


この温もりに溺れているとは認めたくなくてずっと押し殺してきた筈の感情が、とうとう発露してしまったのを肌で感じながらも“ジューダス”は只穏やかに笑うばかりだった。


 ――甥っ子・三歳半――


もしもその弐・甥っ子高校生




洗いのかかった、むらのあるターコイズブルーのジーンズ、ベルトループに付けっぱなしのカラビナには幾つかの鍵がぶら下がっている。
自宅と、部活用ロッカー。
そしてもう一つ、SDカード程の大きさのカードキーを腰元で揺らしながら歩く少年はオレンジ色のダウンコートのポケットに両手を突っ込んだまま白い息をほう、と吐いて晴れた空を見上げた。
昨夜少しだけ降った雪が黒いアスファルトに薄く氷を張っている。
その上でスニーカーのゴム底をつい、と滑らせながら少年は柔らかな癖毛をふわふわと揺らして跳ねるように歩く。
少し地価の高い区画(最も少年がそんなことを知る由も無いが)所謂高級住宅街に躊躇なく足を踏み入れるとカイルは迷うことなく細い路地を縫う様に辿る。
ちゅん、ちゅんと響く雀の囀りを聞きながら、十五階建てのオートロックマンションのエントランスを通り抜けた。
小さなカードキーをセンサーにかざすと、自動ドアを潜りカイルは何時もの様に集合ポストを確認する。
その部屋の主は在宅で仕事をする為、郵便物を溜め込む癖があると少年は良く知っていた。

(ジューダス、年賀状も取ってないよ)
これも最早、年始の恒例行事になってしまっている。
(何だかんだ言ってジューダスって、面倒くさがりなんだよな……俺には色々言うけど、自分は結構人に甘えてるし)

少年は郵便物の束で顔を隠しながら、思わずほくそ笑んだ。
受話器を肩に挟みキーボードを叩き、クライアントの無茶苦茶な注文にも手際良く答えつつデスク上の機器を自由自在に操り――そんな風に普段は身を削りながら仕事をこなす彼が、実は休みの日になると散々少年に使い走りを頼む事など恐らく少年以外の誰も知らない。

他人から見ればこの関係は些か奇妙に映るだろう。
だが少年は何故か、悪い気がしないのだ。

(この間のケーキも、美味しかったな)
あれは確か年末の繁忙期、宿題が終わらず叔父の家に入り浸っていたカイルが気を利かせて彼にコーヒーを淹れた時だった。
『……カイル』
『何?あ、砂糖とミルク入れよっか?』
『いや……これで、何か茶菓子を買って来てくれないか』
『えー、俺―?』
『お前の分も買って来い。何でもいいぞ』
『何でも良いの?!』
『ああ……斜向かいのブロックに新しく洋菓子屋が出来た。あそこで良い』
『んー、分かった』
渡されたマネークリップに挟まっている千円札二枚に首を傾げながら、いざ洋菓子屋に足を踏み入れてみれば。
一番安価なショートケーキに七百二十円の値札が付いていて、少年は店員に悟られぬよう必死で驚きを隠しながらも叔父の行動に納得し、それから。

(お金がある……とか、それだけじゃない)
いつの間にか用意されていた、自分用の新しい部屋着。
もっと言えば唐突な引っ越し、新しく借りた部屋は大き過ぎるベッドを入れた客間もある。
そして、他人が居ると落ち着かないと常日頃から零しているにも関わらず、当然の様に揃えられているもう一人分の食器、マグカップ、生活用品。
彼は何時だって少年には何も言わない。
『遊びに来い』とは言わないし、『泊まっていけ』とも言わない。
只何も言わず夕食を用意し、風呂を沸かして部屋着を用意し、時々勉強を教え、そして客間のベッドを整える。
朝はコーヒーしか飲まない筈の彼は、甥っ子が起き出す前にキッチンへ立ち、パンをトーストし付け合わせを用意し。
少年が学校へ出立する際には母親がするのと同じ様に玄関で見送り、控えめにだが手を振る。
そして、彼がドアの向こうで錠を落とす音をカイルは一度も聞いたことが無い――今まで、一度たりとも。

(大切に、してくれてる……多分、)

それを思うと、くすぐったいような苦しいような、複雑な思いが少年の胸に込み上げてくるけれど。
(でも、嬉しい)
他人には見せない一面を、一回り以上歳の離れた男が自分だけに見せるということをカイルは何故か誇らしく、そして少しだけ愛おしくすら思うのだ。
(仕事も家事も出来て、頭も良くて、完璧で)
それでもふとした瞬間に顔を覗かせる、彼の純朴な優しさや弱音交じりの本音に。
カイルは行き先を指定され上昇を始めたエレベーターの中で、つい先日のやり取りを思い出しながら、我慢できず密かに一人微笑むのだった。


           
「たっだいまー! あー、寒かったあ」
乱雑に靴を脱ぎ捨て、郵便物の束を両手で抱えながらまるで自分の家の様に遠慮なく、少年は叔父の部屋へ上がった。
級友達が初詣の後に揃って帰省してしまえば、地元に一人残されたカイルの足は自然と此処へ向かうのだ。
「……何だ、随分早かったな」
「うん、甘酒は貰えたんだけど餅つき用のでっかい杵が壊れちゃって。町内会の会長さんが持った瞬間にすぽーんって抜けたんだ、もう皆大爆笑だよ! だから、もうちょっとしたらまた様子見に行こうと思ってさ」
町内では恒例行事となっている、甘酒配りと新春餅つき大会。
ジューダスはこうした行事にさして興味も無いのだが、カイルとスタンはこういった胃袋に直結する行事に滅法弱い。
“今年もデュナミス家が全部平らげたって話よ”等と云う噂があちこちで囁かれる度、またやらかしたのか、とジューダスは毎年一人で気を揉むのである。
「今年は占領するんじゃないぞ」
「分かってるって!それより、年賀状来てたから取っといたよ」
「ああ……その辺に置いてくれ。後で見る」
「……ジューダスってほんと、こういうの興味無いよね?」
素っ気ない返事に、カイルがじっとジューダスを見上げ首を傾げて尋ねれば、彼は気まずそうに目を逸らす。
「……、面倒だからな……」
「じゃ、仕分けしといたげる!宛名読むから、仕事の人は教えてね、行くよー」
ソファに座り、年賀状の束に掛かっている輪ゴムを早速外し、姿勢を正して。
まるでカルタの読み手の様に葉書を持つ少年を一瞥するとジューダスは降参だと云う様に頭を振って、それから甥っ子の横へ静かに腰掛ける。
「バッカスさん……て、うちにも来てたな。あ、マギーおばさんとボブおじさん、それとリリスおばさん。このレンブラントさんっていう白髪の人は?」
「仕事だな」
「バルックさん」「仕事だ」
「アシュレイ・ダグさん」「仕事」
「ロベルト・リーンさん」「仕事だ」
「……ジューダス、友達居ないの?」
「……うるさい、」
「ごめんごめん、えーっと、次は……、…………」
どうせこう聞かれると思っていた。
嫌な予感が的中してしまったジューダスは、コーヒーを啜る振りをしてマグカップに噛り付き、何とか表情を隠した。
だが甥っ子の言葉が不意に途切れたので彼は顔を上げる。

「……カイル?」
「……女の人から来てるけど……これ、誰?」
「……? ああ、イレーヌか」
ジューダスが平然と名を呼ぶと、それを聞いたカイルはハガキを食い入る様に見つめたまま俄かに表情を曇らせた。
「今、名前で呼んだ」
「元同期だからな」
「本当に?」
「ああ……何だ、その顔は」
「ジューダスって……この女の人の事、好きなの?」
ばっと顔を上げた少年の目は真剣そのものだ。
しかも、先程までとは打って変わって何だか険悪な雰囲気。
ジューダスは彼の心境の変化が理解できず、呆気に取られてしまう。
「……は?」
「だって、これ…これ……!」
カイルが指差す先を見れば。

――またお食事などご一緒させてくださいね――
女性特有の丸みを帯びた文字で書かれた挨拶文は、確かに親しげではあるがあくまでも社会人としての付き合いの範疇に収まるものだ。
少なくともジューダスはそう受け取る類の人間である。
だが、まだ社会経験の少ない少年にはどうやらその辺りの微妙な匙加減が理解できぬようで。
「二人っきりで会ってるの?ねえ、ジューダス、」
「いや……確か講習会が終わった後、誘われて皆で」
「ふうーん……そ、」
唇を尖らせて気の無い返事を寄越す少年の様子に、ジューダスは何故か既視感を覚えた。
「……カイル、お前」
「なーにー……?」
そう、確か僕とカイルが初めて二人きりで遊びに行く計画を立てた時。
休みが合わず同行できないと知ったスタンが見せた表情と、目の前の少年の表情はとても良く似ている。
当時はスタンに対して器の小さい男だ、位にしか思わなかったのだが。
(妬いている……のか、それとも)
「何か、勘違いしているな」
「どういう?」
「いや、僕の思い過ごしなら良いんだが」
「だって、最近あんまり俺と二人で出掛けたがらないし、楽しくないのかなって……」

口籠り、俯きながら言うカイルの表情は少しだけ寂しそうで、ジューダスの胸の内で唐突に少年へ対する愛おしさが込み上げてきて。

この表情を一度見てしまうと、どうも自分は抑えが効かなくなってしまうらしい。

「ふ……全く、面倒な奴だ」
「ううー……酷いよ、ジュ……」

自身の名を呼ぼうとする少年の頬を親指でなぞり、右手で耳に触れ、左手をうなじまで伸ばし。
静かに少年を絡め取りながら、男は色素の抜けた灰紫の双瞼で只々少年を見澄ました。
前戯の様に軽く少年の唇を啄み、それから漸く男は瞼を下ろす。
弾力のある唇、その隙間へ舌を捻じ込んで歯列をなぞり、少年のまだ成長途中の喉が空気を欲して咄嗟に鳴るのも無視して互いに舌を絡め合う。

酸素が少しだけ、足りない。
ぼうっとする……吐息が交じり合うのを感じ取りながら、幾分朦朧としてきた意識で少年はこの蕩ける様な感触に心浮かされていた。
(別にこういうことがしたいとは、言ってないんだけどな)
望んでは居ないけれど、拒絶するのは躊躇われて。
常日頃は酷く低体温の彼が、この瞬間だけ頬を上気させ人らしい温もりを取り戻す。
それを知った少年は何時からか、この行為を拒絶するどころか喜んで受け入れるようになっていた。

そして何より、この行為がもたらす快感を覚えてしまった少年は今や心の何処かで常にそれを求めてさえいる。

「ジュ、ダス……」
「……カイル、」
つ、と糸を引く唾液を指で拭ってやると、男は少年の髪をくしゃりと掻き混ぜてから立ち上がる。
その仕草も最早見慣れたもので。
なのに少年の心臓は勝手に早鐘を打ち、男が平然としているのにも関わらず暫くは上がった息を整えるので精一杯なのだ。
(ずるいよ、ジューダス
) カイルは呼吸を整えながら火照る顔を両手で覆い、ソファの肘掛けに突っ伏した。
こんなに自分の感情を露わにされたというのに、当の本人は涼しい顔をしてクローゼットから上品な仕立てのウールコートを取り出して袖を通し、それから。

「そろそろ、餅でも食べに行くか」
「あ、確かに……もう出来たかな……って、ジューダス?」
「早く支度しろ。置いて行くぞ?」
「……!うん、早く行こう!」

にやり、と笑みを浮かべながらあっという間に廊下へ出てしまうジューダスの背中を目で追い掛け、カイルは先程脱ぎ捨てたダウンコートへ慌てて袖を通す。
男が開け放った玄関扉の向こう側は相変わらずの晴れ渡る晴天で、だがその光景が少年には何故か、まるっきり新しい世界の様に映ったのだった。


「……ジューダスって、ずるいよね」
「? 何か言ったか」
「何でもなーい!行こう、ジューダスっ!」




 ――甥っ子・高校生――






宿に着き、入浴と夕食を済ませ、リアラを部屋まで送り届けた後、いつもなら男三人一つの部屋で仲良く雑魚寝でもする時間。
その日、ジューダスの理性の箍が外れる音を聞いた者は、彼本人を除き他に居なかった。


Placebo




「あれ、ロニったらどこ行っちゃったの?」
本日の道具補充当番だったカイルが、うんうん唸りながら明日の出立の準備を終えての第一声がこれだった。
「……リベンジだ、待ってろよ夜のノイシュタット、などと叫びながら出て行った…後は知らん」
「げ、また?今日こそは成功してほしいなあ…」
「そうだな、翌日一日中愚痴を聞かされるこちらの身にもなって欲しいものだ」
「確かに……いや、でもほらロニはナンパが命って感じだからさ、ね?」
それ位は許してやろうとでも言いたげなカイルの物言いにジューダスは思いがけず苛つき、そしてそんな自分に少し動揺した。別にカイルが誰のことを気に掛けようと自分には一切関係のないことだ。自分は只々彼を守り彼の力になる、余計な事を言えば彼の成長を妨げ歴史にも干渉してしまうのだ、最初からそんなつもりは毛頭ない。なのにこの気持ちは一体どういうことなのか。
「ジューダス?どうしたの、ぼうっとしちゃってさ」
「い、いや……何でもない」
動揺を隠し切れないジューダスの様子を不思議に思いながらもカイルはそれ以上何も聞いてこない。その素直さが今のジューダスにはとても有り難かった。
「そう?なら良いけど……あ、そういえばジューダスってさ」
「何だ?」
「寝る前にいつも何か飲んでる…よね?ロニがいると何だか聞きづらくてさ、あれって何?」
「……よく見ているな」
「うん……ごめん、言いたくなかったら別に良いんだけどさ」
晴天の空のように碧く澄んだ瞳がほんの少しだけ不安気に揺れる、その瞬間をジューダスは見逃さなかった。
「あれは只の錠剤だ」
「錠剤って、薬?えっジューダス、どこか具合でも悪いの?!」
出来る限り冷静に表情を崩さず答えたつもりだが、気を抜くとすぐに顔が緩んでしまいそうだった。カイルが自分を心配し気に掛けていることに酷く歪んだ喜びを感じていたからだ。
「ふふ……そんな訳ないだろう」
「よ、良かった……もしジューダスが病気だったら俺、どうしようかと思ったよ」
すぐに安堵した表情に変わるカイルに、何故か今度は物足りなさを感じた。聞かれてもいないのに言葉が止まらない。自分に向けられたカイルの興味が失われていくのが堪らなく許せなかった。
「これは昔からの習慣でな、一種の自己暗示のようなものだ……試してみるか?」
「え?」
「何の効能もない、只の錠剤だ。飲んだところで何も変わりはしない」
「……ジューダスはどうしてそれを飲むの?何にも効かないのに」
好奇心に満ちた表情でこちらをじっと見つめる彼の姿に、あと一押しだ、と自分の中の知らない自分が囁く。
「言っただろう、習慣なんだ。よく眠れるように自分にまじないを掛けるだけだ」
「ふうん……それって、効くの?」
「試してみれば分かる……用意してやろうか、一緒に飲めばいい」
「うん、やってみたい!」
純粋な興味と好奇心に頬を染めながら喜ぶカイルを傍目に、ジューダスはうっそりと笑いながら小物入れを探り始めた。
上手く、いった。
いつも飲んでいるのは正真正銘の偽薬、つまりプラセボだが、どうしても眠れない時の為に少しだけ本物を携帯していることはパーティ内でも自分しか知らない。
カイルに少し待つように言い残し、洗面所へ向かう。二つの瓶からそれぞれ一錠ずつ錠剤を取り出し、短刀で両方とも二つに割る。本物と偽薬の違いなど普段から使用している自分にしか分からないほど些細なものだ、カイルがこれに気付くとは到底思えない。
余った錠剤の欠片を瓶に戻し二つのグラスに水を半分ほど満たすと、目を輝かせながら大人しくベッドに座って待つカイルの横に自分も腰掛け、それを渡してやる。彼の掌に載せた錠剤はとても小さく、ジューダスの目にはそれがまるで空から落ちてきた光る星の欠片のように映った。
「今日は初めてだからな、お前と僕で半分ずつだ」
「そういうものなの?」
「そうだ、効きすぎると明日の朝起きられなくなる」
「ふうん……えへへ、こういうのって何か楽しいね」
「真面目にやらないとまじないが上手く掛からないぞ?」
「うん、分かった……じゃ、せーので飲むよ」

せー、の。

上下に喉が動き、こくり、と欠片を飲み込む。少しの沈黙。互いに顔を見合わせ、大きな異変が無いことを目だけで確認する。
「……それで、これからどうするの?」
「何もしないさ、これを飲むこと自体がまじないなんだ」
「そっか。じゃ、普通に寝れば良いってことだね」
「そういうことになるな」
「うわぁ、なんかわくわくしてきた…眠れなかったらどうしよう?でもそんな訳無いよね、へへ」
”まじない”の雰囲気を壊さぬように小声で呟く彼の上気した頬を見ている内に、邪な考えが首をもたげ始める。カイルにだけ本物の睡眠薬を飲ませることに成功した今、このままベッドで寝かせてしまうのは少し惜しい気がした。
「カイル、少し本でも読まないか」
「え、寝るんじゃないの?」
「興奮を収めるのには読書が効果的らしい……今のお前は初めての事に少し興奮し過ぎだ」
「確かに……じゃさジューダス、何か読んでよ!」
「一階の本棚にあるものは自由に借りていい筈だ、好きなものを選んで持ってこい」
「分かった!」
興奮冷めやらぬまま部屋を飛び出していくカイルの後ろ姿を眺めながら、ジューダスはまるで自分が自分でなくなっていくような奇妙な感覚を覚えた。

 ――――――――――

「……そして10年の月日が流れ、二人はこの街に辿り着いた。長い道のりではあったが、漸く救いを得られることに二人は喜びを隠せなかった……」
僅か十五分足らずで大分薬が効いてきたのか、カイルは自然と落ちてくる瞼をこすりながらそれでも起きていようと必死に本を覗き込んでいる。
そろそろ、良いだろう。
カイルの腕を取り、部屋に備え付けの粗末なソファからベッドへと向かう。微睡んだ意識で歩く彼の足取りは頼りなく、時々不安定に揺れた。
「カイル、もう寝るんだ」
幼い子供に言い聞かせるような柔らかな声。サイドテーブルに置かれた小さな橙色の灯りだけが照らす部屋は、まるで二人だけの箱庭のように思えた。
「……いや、だ…」
「カイル、我儘を言うな」
彼に飲ませた方の錠剤だけ睡眠薬に変えてあるなどとは知らず朦朧としながらも必死に抵抗する彼は、それでも決して掴まれた腕に逆らえない。ジューダスはその姿を見ながら心の奥深くで理性が崩れゆくのを感じ、その衝撃に打ち震えた。
それは、不思議な衝撃だった。
彼を自分のものにできる。彼と苦しみを分け合い、彼を自分のものだと口にし、その肌に一方的に触れることすら出来るという事実。
「眠くなってきたんだろう、まじないが効いた証拠だ……もう寝た方が良い」
「ん……うん、」
ベッドの縁に腰掛けた彼の肩をそっと押してやれば、逆らうことなく掛け布団の上にぱたりと横たわってしまう。
「カイル」
「ん、」
「おやすみは」
「……ん、…………」
規則的な、それでも薬の所為かいつもより弱々しい寝息にジューダスは耳を澄ませる。
そっと、指先だけで頬に触れてみる。反応はない。普段よりずっと深い眠りに落ちたようだ。そのまま頬に沿って手を滑らせ、掌で包むようにして触れる。少し日焼けした肌、思いの外整った顔立ち、金色の睫毛に縁取られ、今は閉じられている碧い瞳。それらが全て今この瞬間は自分だけのものであり、またそう主張することが許されているだなんて。
腹の底から湧き上がる喜びと胸を締め付ける切なさとに、ジューダスは圧倒されてしまいそうだった。且つてリオンであった頃散々苦しめられた不眠症の所為で、今でも偽薬を飲まねばジューダスは落ち着いてベッドに入ることが出来ない。ところがカイルは何も疑わず、且つての自分の苦しみの象徴であったそれを受け入れた。受け入れてくれたのだ。それを奇妙とも思わず、拒絶もせず、彼にはそれが必要なんだと理解して苦しみを分け合うことを躊躇なく選んだ。それがこれ程までに彼の心を救うなどとは知らずとも。
「カイル……お前は本当に馬鹿だな」
知らず呟いていた言葉に自分でも驚かされた。これからはもう少し人を疑うことも覚えた方が良い、と忠告しておくべきだろうか。それでもきっとカイルは”仲間”の言葉なら何一つ疑うことなく信じてしまうのだろう。
「お前は、今だけは僕のものなんだ」
誰にともなく宣告すると、ぞくりと鳥肌がたった。心臓が煩く脈打つ音と彼の静かな寝息だけが耳に響く。
まだ幼さの残る丸い頬を指の甲でそっと撫でる。微かに身じろぐこともせず死んだ様に眠る彼、その寝顔を眺めながらジューダスは僅かに上下するカイルの胸 ――その心臓の真上―― に手を置くと、決意を込めて誓いを立てる。
「お前は、お前だけは絶対に死なせたりしない…二度と同じ過ちを繰り返したくない。お前の父親を傷付け世界を売り渡し、僕は全てを失った。もう一度生を受けた今、僕が出来ることはこの命に代えてもお前を守ること、それだけだ」
一つ息を吐いてから、ジューダスは小物入れに手を伸ばした。先程カイルに飲ませた方の錠剤の欠片を口に含み、何度か噛み潰してから胃に流し込む。こうして飲むと薬の即効性が増すことを、ジューダスは経験で知っていた。
これで、いい。同じ星の欠片を分け合い、二人して朝まで死んだ様に眠ろう。だけどその前に、後一つだけ。
彼の額から前髪を払い、自分の頬と彼の頬とを触れさせる。彼の耳元に唇が触れそうで触れない距離。こうでもしなければこの距離まで近付くことは出来ないし、許されない。
「眠るんだ、カイル……これからお前を襲うであろう困難に立ち向かう為に」
景色が段々と色を無くしていく。宙に身を委ねたような感覚は久し振りだった。それでも、手放したくない温もり。違うベッドで寝ることすら惜しい。どうせカイルは寝坊するだろうし、昔の事とはいえ耐性のある自分の方が先に目覚めることは容易に想像出来る……

「おやすみ……僕の、カイル……」

やがて、糸が切れた操り人形の様にジューダスはぱたりとベッドに沈む。彼の理性の箍が外れた音だけが、未だその小さな箱庭の中を木霊していた。


Placebo end.







7/16テイルズワンライ お題:傷跡
D2本編後半、意地っ張りなジューダスともどかしいロニ。二人ともカイルを大事にし過ぎています。


傷跡



「……ジューダス?」

宿に着くなり、ジューダスの奴がベットに腰を下ろしてそのまま座り込んじまった。
普段ならまずマントを外して、風呂で汗を流してからでないとこいつはベッドに触れようとさえしない潔癖な奴なのに。

「カイル、先に風呂へ入れ」
「え?」
「良いから入れ」
「う、うん……分かったよ、じゃね」

(……あのなあ)
幾らカイルが馬鹿だとしても、有無を言わさないその物言いはどうなんだと問い詰めたくなる。現にカイルは不思議そうな顔して首を傾げながら風呂へ行っちまった。全く、どうしてこいつはいつもこうなんだよ。

「おいおい、今度はなんだよ。まーたお得意の隠し事か?カイルは上手く誤魔化せても俺はごまかされないぜ」
ちょっと言い過ぎた気もするが、耳にタコが出来る位皮肉ばっかり聞かされてるんだ、これ位は許されるよな。俺はそんな事を考えてたんだが、ジューダスは俯いたまま何も言わない。 ついかっとなって顔を覗き込む。何せ正体を明かした後もずっと仮面を付けたままのジューダスの表情はこうでもしないと読み取れない……


「おいジューダス、何とか言えよ……、!!」

正直、その瞬間ぞっとした。
仮面の下の奴の顔がいつにも増してすっかり青ざめちまって、痛みを堪える様に唇を噛んでいたからだ。

「おいおいおい、大丈夫か?ただ事じゃねえな……リアラでも呼んでくるか?」
生憎俺の昌術じゃ回復量が少ないし時間が掛かっちまう、ところがジューダスは首を横に振って頑なに嫌がりやがる。

「いい……古傷が少し痛むだけだ」
「古傷っていつのだよ、ほれ、見せてみろ」
実はその時の俺は、この”古傷”ってのが俺達と仲間になってから出来たもんだと思い込んでいた。半分呆れながらも一応仲間だし、と思いながらジューダスが手で抑えていた左脇腹に手を掛ける。

「や、やめろ……っ、」
「ちゃんと治療しないからそうなるんだよ、お前って本当そういうとこ馬鹿だよな」
強引に上半身の服を脱がす。
そういえばこいつは誰とも風呂に入らないし着替えも人に見せないな、なんて思いながら……その時俺の目に飛び込んできたのは、右肩から左へと伸びる大きな袈裟切りの跡だった。

「お前、これ……」
それ以上の言葉が出なかった。
ジューダスは額に冷や汗を浮かべ、ふう、と一つ息を吐いてから口を開く。
「……言った筈だ、古傷だと。エルレインの蘇生とやらも、どうやら完璧ではないらしい」
「ジューダス……」
「最も、これは消せない罪を現すものだから……残っていて良かったと、僕自身は思っている……ただ、」
「……何だよ」


「カイルにだけは、絶対に漏らすな」
ジューダスは何にも言えないままの俺を冷徹な視線で射抜く。
本気だ、と直感した。
こいつは本気で俺を脅しにきたらしい。

「……一つ、聞いてもいいか?」
「何だ」
「その傷、スタンさんが?」
「……そうだ」

やっぱり。
だからこいつは誰にも素肌を見せなかったんだ、そう思ったら何だがぞっとした。気持ちは分からなくもないんだが(隠し事に関しては思い当たる節があるし)、こんな顔色しながら誰にも素肌を全く晒さずに一緒に生活し続けるなんて、いくら何でも無理だとは思わなかったのか、こいつは?


「……分かった分かった!お前がカイルのことを、目に入れても痛くない位可愛がってるのが身に染みてよーく分かったよ……カイルには絶対にバラさないさ、その代わり、」
「……その代わり?」

出た、いかにも怪訝そうな顔。本当は痛みにのたうちまわりたい癖に、すました顔しちゃって、この見栄っ張りめ。
こいつはある意味カイル以上に馬鹿なんだな。

「今夜は街で綺麗なお姉さんとお近づきになりたいんだ、見逃してくれるか?」
「……好きにしろ」


そんでもって、こんなちっちゃい事で貸し借り無しにしちまう俺もまた、こいつと同じ位馬鹿ってことか。


傷跡 end.





絶対音感





ある音(純音および楽音)を単独に聞いたときに、その音の高さ(音高)を記憶に基づいて絶対的に認識する能力。相対的な音程で音の高さを認識する相対音感に対して、音高自体に対する直接的な認識力を「絶対音感」と呼ぶ。




「うわあ、おっきなオルガン!」
宿屋の食堂の隅に置かれた楽器を指差し、カイルが好奇心に目を輝かせながら駆けてゆく。
厨房から食材を取りに来た宿の主人がその様子を見て、カイルに声を掛けた。
「坊主、それはオルガンじゃないぞ。ピアノってんだ」
「ピアノ?」
「ああ、でっかい音も小さな音も鳴らせる、オルガンよりずっと高級品さ」
「ねえおじさん、俺これの音聞いてみたいんだけど、いい?」
「おう、ちょっと待ってろ、今鍵を取ってきてやる。ま、暫く放ってあるから音の保証は出来ねえぞ?」
「うん、ありがとう!」
満面の笑みで礼を言うカイルに、丁度そこへ居合わせたロニとジューダスが歩み寄る。

「カイル、お前オルガンだって一度も弾いたこと無いのに、大丈夫なのかよ?」
「えー、ロニだって、折角母さんが教えてくれるって言ったのに全然練習しなかったじゃん、ロニにだけは言われたくないなー」
「俺は一応努力しようとはしたんだぞ!ただまあ、ああいうものは向き不向きがあるからな……」
「ほらー、やっぱりさぼったんじゃんか!」
「う、うるさい!カイル、お前だって孤児院の劇で一人だけ音外しまくってたじゃねえかっ」
「俺だって真面目に練習したんだよっ」
「……お前達、少し静かにしないか。他の客に迷惑だ」

ジューダスが頭を抱えていると、宿の主人がじゃらりと音を鳴らして鍵束を持って現れた。
「ほい、おまっとさん」
蓋の真ん中に空いた小さな穴に鍵を差し込み回すと、ごと、と昔ながらの錠を落とす音が聞こえた。
姿を表したのは白と黒の鍵盤。
普段はあまり手入れをしないという店主の言葉通り白鍵が少し黄ばんでおり、また鍵盤の所々が小さく欠けている。
だが、店主がこのグランドピアノの天板を一番高く上げると、その堂々とした佇まいがより一層際立ち存在感を増した。
「折角だからたまにはこうして風を通してやらねえとな、後は好きに遊んでくれ」
そう言い残して店主が厨房へ戻るのを見、カイルが早速と云わんばかりに長方形の革張りの椅子に腰を下ろす。
グローブをぱっと脱ぎ捨て鍵盤に両手を乗せ、そして……

「かーえーるーのーうーたーがー、きーこーえーてーくーるーよー」
「「?!」」

何やら鍵盤を叩き、それに合わせて本人は歌っているつもりらしい……だが、残念ながら音もリズムも全く噛み合っておらず単なる騒音にしか聞こえない。
ロニとジューダスは一瞬顔を見合わせ、それからロニの方はやれやれ、と云った表情で近くの空いていたテーブル席に腰掛けた。
するとジューダスが、でたらめな歌を歌い続けるカイルの元へと歩み寄っていく。

「……カイル、ちょっと待て」
「え、何?」
「この際だからはっきり言うが、お前の音感はめちゃくちゃだ。ピアノというのは……」

そこまで言うとジューダスはカイルに椅子を少しずれろというジェスチャーをし、カイルの左側にちょこんと腰掛けた。
「ここがド、だ。白い鍵盤が二つ並んでいるここに親指を置いて、人差し指、中指、と順番に弾く……」
ジューダスが鍵盤よりも白くほっそりとした指で、カイルに分かるようにゆっくりとメロディを辿る。
その様をカイルは食い入るように見つめ、それから自分の指でたどたどしく鍵盤を辿っていく。
「そう、次はここ、指の形を変えずにミのところへ親指をずらして、さっきと同じように弾くんだ」
ジューダスの明瞭な説明で一気に要領を掴んだカイルは、すぐに同じメロディを奏でられるようになった。
そうして右手のメロディをさらい終わると、カイルは目をキラキラと輝かせて自慢げにロニの方へ振り返る。
「ロニ、今の聞いてた?!俺ってもしかして、才能あるかも?」
「ばーか、今のはジューダスの真似しただけだろ、それ位なら俺にも出来るって」
「えー、ほんとかなあ……」

不満げに鍵盤へと向き直るカイルに、ジューダスは何やら少し考える素振りを見せ、それからカイルの耳元で横からそっと耳打ちする。
「カイル、もう少し難しいのを教えてやる……後であいつに聞かせて、びっくりさせてやれ」
「えっジューダス、いいの、ほんと?」
「ああ……お前は呑み込みが早い、きっとすぐ覚える筈だ」
「ロニー、ちょっと部屋に戻ってて!俺達もうちょっとピアノ弾いてるからー」
「はぁ?」
「いいから、早くー!」
「何だってんだよ全く……」

文句を垂れながら階段へ向かうロニの後姿を確認すると、カイルはぱっとジューダスを見、好奇心に満ちた目で早く教えて、と訴えかけた。  


――――――――


「あっれー……また間違った」
「ここはこの曲の中でも一番難しいからな……そうだな、」
ジューダスは唐突に椅子から立ち上がると、カイルの背後に回り日焼けした指の上へ自身の白い指をぴったりと重ねる。
「これで僕が何度か弾いてみる、感覚で覚えるんだ……良いな」
そう言ってジューダスがカイルの指越しに鍵盤を辿り、またカイルの耳元でピアノの旋律にぴたりとピッチを合わせドレミで歌いはじめる。
「ド、ミ、ソ、ファ、ミ、ド、ミ、レ……」
低い声で囁くように歌うメロディが、カイルの頭に一つ一つ刻まれていく。
耳に掛かる微かな吐息に、カイルは不思議な感覚を覚えた。

もっと、聞いていたい。
ジューダスはあまり特別なこととは思っていない様子だが、小さくとも良く通るこの声は人を不快にさせるどころか、聞いていて心地が良い。
そんなことを考えていると不意にジューダスの指が止まる。

「カイル、集中しないと終わりにするぞ?」
後ろから顔を覗き込まれ、そちらを見やると少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべたジューダスが今度は何も言わず、ふわりと優しく微笑む。
彼を取り巻く柔らかな空気とその笑顔に、カイルは思わず瞬間見とれてしまった。

「よし、良い子だ。さ、あともう少し」

その言葉で慌てて鍵盤へと向き直り、カイルは指を元の位置に戻す。
ジューダスがこんなに柔らかく笑ったのを初めて目にし、そしてその歌声と、重ねた指の温かさや感触をどうしても頭から消し去ることが出来ない。

(ジューダスはきっと、音楽が本当に好きなんだ)

急にどくどくと脈を早めた心臓の鼓動と、その顔が火照っているのとを気付かれたくないカイルは、先程より俯き加減でただひたすらにジューダスの指示通り鍵盤をなぞるのであった。



絶対音感 end

絶対音感








絶対音感 end

mauve.





薄く灰色がかった紫色、葵を意味する仏語。
世界初の合成染料。



霧、霧、霧……辺り一面に立ち込める濃い霧が、一寸先の視界をも埋め尽くし奪っている。
灰色の視界に人影は無い。
少年は微かに聞こえる水の音―川のせせらぎだろうか―の方へと、耳を澄ませて一歩踏み出した。
一歩、また一歩と少年が歩を進める内にその音は加速度的に鮮明さを増してゆく。

この音は、自然の音じゃない。
癖のある柔らかな金の髪を耳に掛けると少年は間違いない、という風に大きく頷いた。
不規則なリズムで聞こえるこの水音は自然のものではない、例えるならば母が川辺で洗濯物を洗う時などのように、これは人が生み出す音だ。

そう、霧の向こうに誰かが居る。
少年は躊躇いなく前を真っ直ぐ見据え、どんどんと先へ進んでいく。
音は鮮明さを増していくが、景色は一向に変わらない。
足元には落ち葉が敷き詰められ、時々枯れた木がぽつり、ぽつりと姿を現す。
自分が何処に迷い込んだかも良く分からないまま、只々少年は前へと進む。
まるでそう義務付けられているかのように淡々と、しかし確固とした意志を持って。

この奥に誰かが居る。
殆ど視界の利かないこの世界に誰かが留まっており、きっとその人間は一人きりでいる。
でなければ声がする筈だ。誰の声も聞こえないということは、その人間はこの退屈な世界に一人きりで……


その時唐突に、踏んだ地面が抜けるような感触がして少年は思わず足元に目をやる。
だが枯れた枝葉が乾いた土を埋め尽くしている光景は先程と何ら変わりが無く、少年はおかしいな、という風に首を傾げながら顔を上げた。
瞬間、視界を覆っていた霧がばっと晴れ、目の前に腰の深さほどの川が映る。
その川辺は小石の隙間から苔や草花が生え、周囲を森で囲われており、水面は夜の曇り空を照らして灰色に沈んでいた。
ぱしゃり、と水音が響いた方へ少年が目をやると、川岸にしゃがみ込み水面を撫でる人影が一つ。


「……、」

彼の名前を呼ぼうとした少年は、しかし言葉の発し方を忘れてしまったようにまるで声が出せない。
この人影を見た時、確かに少年は彼の名前を知っていると確信していた。
だが、いざ声に出そうとするとその名前が全く思い出せない。
思い出せないのだ。
見覚えのある寂しそうな横顔、白い肌、風に揺れて深い墨色からモーヴ色に変わるこの髪の色も、それと同じ瞳の色も、名前以外は全て知っている。
少年はもどかしさで思わず拳を握る。
何故、覚えていないのだろう。
何故、どうして、こんなに寂しそうな人間にその名前を呼び掛けてやることすら叶わないのだろうか。
名前を呼べないならせめてここに自分が居ることを伝えたい。
少年は頭を振ると、その人影の方へと勢いよく駆け出した。
膝を抱えるように小さく丸まっている彼の肩に、手を伸ばす。
華奢な肩に触れると“彼”はそれに気付いてゆっくりと此方を振り向いた。

「……、」

やはり、名前が出て来ない。
けれどそれでも構わないと少年は思った。
君は一人じゃない、自分がここに居る、その思いが伝われば十分だと思ったのだ。
彼は膝に手を付きゆっくり立ち上がると、少年の顔をまじまじと眺め微かに笑った。
それから少年の肩を押す。
まるであっちに行け、と云う様に。

「……、だ、」

彼の声が少年にはノイズが掛かったように酷く聞き取り辛く、また肩を押されたのも拒絶されている様に感じ納得が行かない。
どうして、どうして、そう唇の形だけで何度も伝えてみれば。

「…こは…カイ……、お前が居ては……けないんだ、だか……」
―ここまで来てくれて、ありがとう―

少年と同じように唇の形だけでゆっくりと言葉を紡いだ彼の唇がやがて閉じられ、その目が伏せられ、そして彼は少年に背中を向け川辺を下流へと歩いて行ってしまう。
するとこれに呼応する様に先程まで晴れていた筈の霧が何処からか舞い戻りまた視界を覆った。

少年は何故か足が竦んで、その場から一歩も動けぬままだった。


mauve. end

時を止めて、今きみを守れるなら





「勉強?」
「そうだ、お前達はこれから王の前に出ようというのに知識が少なすぎる……特にカイル」

ハイデルベルグに着くや否や、ジューダスがこう主張し始めた為にメンバーは足を止めた。
謁見の前に全員で英雄門の図書館を訪ねるべき、との提案を聞いたカイルが振り向きざま、きょとんとした顔で首を傾げる。
今にも何で?と言い出しそうな表情だ。
それを瞬時に察したロニが、カイルの気持ちを代弁してやる。
「おいおい、ウッドロウ王への謁見を申し込むのが先だろ?」
「そのウッドロウ王との込み入った話を、こいつが理解できなかったらどうする。情報を集めたいのなら対等に会話が出来ないと意味が無い」
「ぐ、た、確かに……」
「この街には先の騒乱に関する、かなり正確な資料があると聞いている。これを使わない手は無い」
「……そうね、私もこの時代の資料は一度見ておきたいわ」
カイルの知識が浅いとは直接言葉にしないものの、リアラがこれに控えめに賛同する。
皆の意見が一致したことを確認し、ジューダスは街の衛兵に資料館の場所を尋ねた。
どうやら街を南北に分ける門を隔て、外側は民家が立ち並ぶ近代化した都市、そして内側は出来る限り史実に近く再現しながら復興されたらしい。
衛兵の口振りからするに、一フロア丸ごと史料の山で埋め尽くされたその図書館は各国の研究者、また学生達に特に人気のようである。
一時間も有れば、カイルはともかく基本的な情報を知っているロニとリアラの頭に端から順に基礎知識を叩き込むことも可能だ。

……この時、ジューダスは内心焦っていた。
監督の意図に反する役者はいつ消されてもおかしくない。
現にこの時代ではスタンという“邪魔者”がエルレインによって蘇生されたバルバトスに“消された”世界だ。
つまり、自分がエルレインにとって邪魔と判断されれば即消されても文句は言えない。
そして彼女の意図を理解できていない現段階では全ての可能性を想定して動くしかなく、その“想定”の為には正しい歴史の知識が不可欠だ。

もしも今、自分が消されたら誰が彼らにそれを教えるというのか。
付け焼刃でもいい、とにかくこの旅の間だけはこいつらが正しい判断を出来るようにしておかなければ。

「決まりだな。行くぞ」
「あ、待ってよジューダス!置いてかないで!」
ジューダスは有無を言わさず街道を北上する。
急げ、時間が無い。
後ろを付いて来るカイル達の間延びした歩幅を、今日だけはとても恨めしく思った。


 ――――――――


「……おい」
「ふえ……?」
本の角で軽く頭を小突くと、カイルは辺りを見回しながら欠伸交じりに答えた。
「あれ、ロニは?リアラは?」
「二人とも一通り資料を読み終えて、後はお前だけだ……カイル、」
ジューダスはがっくりと肩を落とし溜め息を付いた。
あの後、四人で一つのテーブルを囲み講釈を垂れたというのに、カイルだけは一分も持たず居眠りし、何度起こしてもまたうとうとし始める。
結局全員が彼を起こすことを諦め、ジューダスは半ば八つ当たりで残りの二人に淀みなくたっぷりと知識を詰め込んでやった。
が、正直まだ物足りない気持ちでいっぱいである。
肝心のカイルはといえば、彼の表情を見ながら慌てるばかりで事の重大性など一つも知らないといった様子だ。

「ジューダス、ひょっとして怒ってる……?」
「……怒ってなどいない、呆れているんだ……」
「えっ、なんで?」
「……」

まただ。カイルは何も分かっていない顔で首を傾げる。
真っ直ぐにこちらを見上げる、疑うことを知らない無垢な心を映したブルートパーズの双眸。
その瞳に吸い込まれるようにジューダスはじっと彼を見つめる。
その内に、ちょっとした悪戯心が芽生える。
この場合、例えば、後々メンバーにからかわれることになりそうな知識を詰め込む……等ということも可能だ。
仮にそれが露呈しても居眠りをした罰だ、とでも言えばカイルは他に言い訳出来ない……その瞬間を自分が見届けられるかは分からないが、企みとして面白そうではある。

「カイル、お前は先の騒乱の事をどこまで知っている。説明してみろ」
「え……うーんと、まず父さんがソーディアンを見つけるでしょ?それで、神の眼を使って世界を壊そうとしたヒューゴを倒したんだ!」
「……どうやら詳細は何も知らないようだな。ではまず、最初に神の眼を盗んだのは誰だ」
「えーっと、リオン?ていう奴が飛行竜で運んだんじゃなかった?それ位は知ってるよ!」
頬を膨らましながらムキになって答えるカイルに、ジューダスは思わず頭を抱えた。

これは難問だ。
仮にも英雄の両親に育てられておきながら殆ど何も知らない、しかもカイルに一から教えるとなれば、今日一晩かかっても時間が足りやしない。

「違う……最初にそれを盗んだのはストレイライズの神官だ。四英雄は世界中を奔走し、ハイデルベルグでこれを奪取……いや、取り返した。その後神の眼は当時のセインガルドの首都、ダリルシェイドに戻された」
「ふむふむ……てことは神の眼は世界中を旅して回ったんだね」
「そうだ。これは神の眼の力を強め、また安定させるために特定の磁場を回る行動だった」
「……じば……何、それ……なんか眠くなってきた……」
「要するに神の眼を利用する準備をしていたんだ、寝るなカイル!」
「あ、そういうこと」
少しでも難しい言葉を使うと眠気に襲われるだなんて、こんな人間もいるのかとジューダスは卒倒しそうになる。
そして恐らくカイルは“誰が神の眼をダリルシェイドから盗み出したか”という一番重要な部分を欠片も知らされていない。
これはきっと彼の両親がリオンの名誉を守るため、また息子が人を憎まず真っ直ぐ生きるようにと配慮していた為だろう。
だが今はそんな悠長に構えていられる状況ではない。

「ヒューゴは一度、セインガルドにこれを返上……つまり返したんだ。国王の信頼を得るためにな。神の眼は一旦ダリルシェイドに保管され、国王は沢山の兵士を動員してこれを警備した」
「へぇ、でもそれじゃどうやってヒューゴは神の眼を手に入れるの?そんなに警備が厳しいなら、誰も入り込めない筈でしょ?」

やはり、カイルは知らない。
リオン・マグナスがどんな人間であったか、それがどれほどの罪を犯したか。

「……ヒューゴには自在に操れる駒が沢山いた。その一人が、リオン・マグナス」

手に持った資料のページを捲る。
この時代はリオンに対する憎しみが強く世相に反映され、ジューダスが今まで訪れた他のどの都市でもリオンに関する詳しい記述は抹消されてしまっていた。
唯一当時を忠実に再現した肖像画が残っていたのがここハイデルベルグだ。
幸い、顔の造作はそこまではっきり描かれていない。
「見たことはあるか」
「無い……これが、リオン・マグナス?」
カイルは、ジューダスが指し示す挿絵を食い入るように見つめてその名を呟いた。

リオン・マグナス。
彼の口から初めて聞いた、自分の名前。
もうこんなものは必要ないと疎まれ存在を抹消された己の名の持つ響きが、嘗ての自分が覚えた未練をも呼び起こしていく気がした。
この旅が終わったら、自分が消滅させられたら、皆の記憶から消えて無くなるジューダスという存在。
勿論そこに抗おうなどとは思わない、一度死んだ自分にとって裏切りの償いを許されたことは奇跡に近いのだから。
それでも、この旅の間だけは誰かの記憶に残っていられる。
ジューダスはそこに僅かな光、可能性を感じた。

彼の唇が緩く弧を描く。不敵な笑顔。

「……奴は元々オベロン社お抱えの剣士だった。その腕を買われてセインガルドに客員剣士として迎え上げられ国王に仕えはじめたが、これはヒューゴの策略だ。オベロン社の急成長には奴が一枚噛んでいたとも言われる」
「どういうこと?」
「要は国王に気に入ってもらうため、オベロン社から送り込まれたスパイだったんだ……この卑怯者はな」
「卑怯者……?」
「ヒューゴに言われるままスパイとして働き国王の信頼を得、やがて英雄と共に神の眼を捜索するよう任務を与えられた。旅の後も任務の責任者としてダリルシェイドで神の眼を封印する作業に立会い、その封印を解く術を自分のものにした。全てを知った奴は警備の目をかいくぐり、神の眼を易々と奪い去ることが出来た」
「……父さん達と旅をしたのに、その後今度はリオンが神の眼を奪った……てこと?」
「そう、奴は最初から全て分かっていてヒューゴの計画に従った」

そこまで言ってジューダスは一つ息を吐く。
カイルはじっとこちらを見つめ、その瞳には疑念の色が濃く浮かんでいた。

それで良い、ジューダスは内心ほくそ笑む。
リオン・マグナスは四英雄を裏切り世界を売り渡した男であり、カイルの父親を傷付けた男。
これは決して間違った知識ではない、だがジューダスの小さな悪戯心はこれで十分に満たされた。
最後の一押しを、吐き捨てるように付け加えながら。

「奴は四英雄を裏切ったんだ。嘗ての仲間をも、な」
「仲間を……」

自分でも知らずのうちに眉を顰めるカイルの姿が、ジューダスの目にはまるで“リオン”を蔑んでいるように映った。
それで、良い。
ジューダスは一人確信する。
リオン・マグナスは裏切り者なのだ、もっと奴を憎み、疎み蔑んでくれ。
そうすればきっとカイルの記憶の中でこの男だけは生き続ける、憎しみでも恨みでも良い、何か一つこいつに自分の生きた足跡を残せないか……自虐にも似た気持ちがジューダスの心を満たし始めたその時、カイルがこちらを見つめたまま切なそうに笑った。


「……俺、そんな話初めて聞いたよ。父さんも母さんも、リオンの事は立派な人だったって言うだけで」
「……そうか」
「でもさ、俺、父さんと母さんの仲間がそんなに悪い人だとは思えないんだ」

窓の向こうの雪景色に目をやりながら、カイルが優しく呟く。
ジューダスは、思わず目を見張った。
カイルがどこか遠くを見るような、昔を懐かしむような目をしていたのだ。
そんなカイルを見るのは初めてだった。
胸が締め付けられるその横顔に、そんな表情をするなと言って今すぐに立ち去ってしまいたくなる。

「……、何故」
「だってさ、父さんと母さんが仲間だって認めてて、立派な人だったって言ってたんだよ?多分そのリオンって人にも何か事情があったんじゃないかなって思うんだ」
「……カイル」
「ジューダスの教えてくれたこともきっと間違ってないんだろうけど……もしかしたら、ギリギリまで父さんたちに味方するチャンスを探してたんじゃないかなって。俺はそう思うよ。なんてったって父さんたちは英雄だからね」


てっきり、カイルは“リオン”を批判するものとばかり思っていた。
ジューダスはそれを望んでいた。
自分を責め、嫌い、憎んで欲しい、そうやってカイルの心に僅かでも残りたいと思う一方、嫌われれば自分が消滅する時に諦めが付くとさえ思っていた。
なのにこいつは、リオンを受け入れるのか。
裏切り者と非難され続けてきた人間にさえ、きっと訳があって、それが彼の本心では無かったとカイルは迷わずに口にした。
それが例え自分の父親を傷付けたと知っても、いやむしろ、父の仲間であったからこそ彼を庇うのだ。

「……そうか。そう思うか……」
「うん。多分、だけどね……ジューダス?」
俯いた視界に入る彼の手が、そっと仮面に触れる。顔を上げてみると、彼はまた首を傾げながら不思議そうにこちらを見つめ、子供をあやす様に仮面を撫でた。

「なんでそんなに悲しそうな顔してるの?俺、何かまずいこと言った?」
「……いや、何でもない」

無垢な魂、その純粋な心。
他人を疑う事を知らず、丸ごと受け入れる。
これに自分は救われたのだ。
そうして人を救いながら生きる彼がいつか立ち上がれぬほど傷付いたら、その時自分は一体何をしてやれる。
それを思うとジューダスの心に一つの決意のようなものが芽生えた。
これを自分は、一切の傷が付かぬよう命を賭してでも守らねばならない、と。

「ちょっとジューダス、何笑ってるのさ」
「だから何でもないと言っただろう、さあ、ウッドロウ王に謁見を申し込みに行くぞ」
カイルの頭にぽんと手を置いてからジューダスは立ち上がる。
今までの躊躇いを含んだ陰鬱さがあっという間に晴れた、そんな表情だ。
すらりとマントをなびかせ、足早に出口へ向かう彼の後ろ姿に置いていかれまいとカイルも慌てて席を立った。

「何だよそれ、悲しそうな顔したり急に笑ったり……変なの。まあいいや、早く行こう!勉強はもう終わりー!やったー!」
ジューダスが戸を開けながらカイルへ向き直る。
全く、と呆れたように頭を振り、それでも緩んだ頬を隠しきれないまま忠告する。
「その考え方は感心しないな、お前はもう少し自分で努力して知識を身に付けた方が良い」
「だってさ、」
ジューダスの脇を小走りですり抜けたカイルが、手すりに沿って階段を駆け下りながら振り向く。
「自分で読むよりジューダスが教えてくれた方が良く分かるんだもん!」


そう言ってにっと笑ったカイルの満面の笑顔は、ハイデルベルグの深雪に反射された日差しよりずっと、ずっと眩しく感じられてジューダスは思わず目を細めた。



時を止めて、今きみを守れるなら end

Feel Loneliness





クレスタの孤児院裏手に流れる川を上流へと辿り、ジューダスは一人大きな岩に腰掛けた。
風に木の葉がざわめき、ふくろうの鳴き声がこだまする中、彼は目を細めて夜空を仰ぐ。
誰も居ない空間に正しく彼は一人きりだ。
空には不気味な彗星が迫っている。
ジューダスは長年共に過ごした相棒と別れた後も、腰に下げたその愛剣をつい撫でてしまう癖が抜けきらない。
宙を彷徨う、滑稽な自身の手を誰かに見られやしないだろうかと思っていたが、幸い他のメンバーも自分の事で精一杯だったようで、誰もそのことに触れなかった。
これに彼は安堵した。
シャルティエを失ってから、随分と自分は変わった。
こんな風に一人の時間を噛み締めることなど以前なら考えもつかなかったのに。

川のせせらぎに耳を澄ます。
月明かりをきらきらと反射しながら静かに下流へと向かう水面に、ジューダスはそっと指の腹で触れた。
流れを少しの間堰き止めることは出来ても、それを完全に絶つことは人間には出来ない。
時間は待ってくれない。
もう少し、あと少しだけ別れを惜しみたいと思ってもそれは出来ない。
自ら神の眼に突き刺したシャルティエの方を一度も振り返らずダイクロフトを後にした。
正しい判断だ。
時に周りから“冷静すぎて怖い”と評されるが、理性が強いからこそ一度箍が外れるとどうなるか自分でも分からない。
だから、これで良かったのだ。


「ジューダス♪」
そんなことを考えていると、背後から突然歌うように名前を呼ぶ声。
気配が全く感じられなかったのでジューダスは内心酷く焦った。
「え……は、ハロルド?何故、」
「何故ここに居るのが分かった、でしょ?この生体反応レーダーを使えば一発よ!それで?」
「……?」

それで、とは何に対して言っているのか。普段なら阿吽の呼吸で会話が成立する彼女の意図を、今日は何故か掴みきれずジューダスは首を傾げる。

「何でこんなとこで一人寂しくたそがれてるのかって訊いてるのよ」
「ああ……まあ、少し一人の時間が欲しかっただけだ」
「ふうん……他人の気配にまるで気付かないなんて、あんたでも有り得るのね」
「……ハロルド」
「なあに?」

ジューダスが水面を見つめたまま呟く。

「兄を失ったこと、後悔しているか」
ハロルドはジューダスの顔を見て、どきりとした。
能面のように堅い表情。
心ここに在らずの彼が、返事を催促するようにそのままこちらを向いた。
「突然何よ。その件に関してはもう話は付いてるでしょ」
「……もし、ミクトランと討ち死にしたのが僕だったなら、」
「……何それ」
「そうなればお前は兄と一緒に居られる、と一瞬思ったんだ」
「ばっかじゃないの?あんたなんかミクトランにあっという間にけちょんけちょんにされるわよ!」

投げやりに叫ぶと、ハロルドは勢いに任せてジューダスの横に腰掛ける。
自嘲するように笑う彼の姿を直視出来ないでいた。
どうしてあんたはいつも。
そう言い掛けて、しかしハロルドは彼の反応を待つ。

「これは手厳しいな」
「当たり前じゃない、そもそもあんたのその考え方が私、気に入らないわ」
「何故」
「何でも自分が犠牲になればそれで済むと思ってるからよ。あと、今この瞬間にも“理想の消滅の仕方”を無意識に考えてるところもね」
「……そう、見えるか」
ジューダスはそれだけ言って口を噤む。
卑屈になっているつもりは無かった。
ただ、自分が犠牲になることで幸せになる人間が居るのなら、それはそれで良いと思ったのだ。

「考えてもみなさいよ。もしあんたがダイクロフトでシャルティエを神の眼に刺さなかったら、シャルティエはあんたに何て言うかしら?」
「それは……」
彼女の言うことは最もだ。
役割を全うしたいとシャルティエは願っていた。
その意思を無下にすることは出来ないし、してはならない。
自力で動けない彼の代わりに自分が刺してやり、彼はそれに感謝の意を述べた。
他人が意思を変えることなど、絶対に出来ない。

そこまで思い至ってジューダスははっとさせられた。
自分は今、何という事を言ったのだ。

「あんたの言ってることはそういうことよ、今日は随分弱ってるみたいだから許すけど。素面でそんなこと言ってご覧なさい、すぐに実験台にしてあげるから」
にやり、と彼女がいつものように笑う。
とても年上には見えない幼い顔で、誰よりも物事を深く掴んでいる。

彼女には、敵わない。
全て見破られてしまった。
吹っ切れた表情でジューダスはふ、と笑うと、もう一度空を見上げた。

「ハロルド、酒は飲めるか」
「……とうとうおかしくなっちゃった?」
「違うさ、今晩だけ付き合ってくれないか。久しぶりに飲みたい気分なんだ」
「いいけど、あたしより先に潰れたら許さないわよ?」
「潰れるほど飲むとは言っていない」
「まあ、あんたが泥酔してる光景なんて想像付かないけど、ね」
揃って腰を上げた二人は、そのまま肩を並べて川を下流へと、街の街灯の方へと歩き出した。

孤独を抱えた二人を、その後姿をクレスタの川が静かに追い掛けながら見守っていた。



Feel Loneliness end

おまじない





「とうさ……スタンさん、大丈夫、ですか?」
十八年前のダイクロフトの内部は、今まで人が生活していなかった所為もあってかび臭く、また薄暗い。傷を負ったスタンを、ルーティが昌術で癒していく。淡い青色の光に満たされ、傷が塞がっていく。それからルーティはカイルをふと見やる。
「ちょっと、きみ」
「え、え?俺、ですか?」
「動かないで……ファーストエイド」
「……!!」
「はい、OK。小さな傷でも膿んだりしたら大変よ。ちゃんと治療しなくちゃ」
「あ、ありがとう、ございます!!」
何故か若い頃の自分の母親に恐縮しながら、カイルはぺこぺこと頭を下げる。その光景が、ロニに懐かしい記憶を蘇らせた。
(確か、ルーティさんって……)
子供が怪我をした時によく使う台詞、「痛いの痛いの、飛んでいけ」を彼女はいつも「ファーストエイド」と言っていた。当時アトワイトは既に居ない状態だったけれど、それを耳にしたスタンが「はは、懐かしいな」とルーティをからかうように笑っていたのをロニは未だに覚えている。 けれどカイルがこれほど驚くということは、カイルはその事を覚えていないのだろう。つまり彼が物心付いた頃にはその習慣も無くなっていたという事になる。
だとしたら、一体いつから止めてしまったのだろうか……

「まあったくスタンは……もっと周りを見なさいっていつも言ってるでしょ?」
「見てたさ。けどあそこで前に踏み出さないと力負けすると思ったんだよ」
「だったらこっちに合図の一つや二つでもするのが先でしょ?」
「ふ、二人とも、もう良いじゃないですか」
若い両親が血気盛んに言い争うのを見ていられなくなったカイルが二人の間に割って入る。
が、二人の勢いは止まらない。
「そうやっていっつも一人で飛び込んでいって、もしものことがあったらどうするつもり?」
「何だよ、俺が黙って突っ立ってればいいっていうのかよ」
「そんな事誰も言ってないでしょ?!あたしはただ、あんたにもしものことがあったら……」
「あったら?」
「……っ、替えの前衛がいないから困るの!体力馬鹿じゃないと壁役になれないでしょ?!もう!」
「だからさあ、そこはルーティが回復してくれると思ったんだよ。もういいじゃんか、この子達に聞かせるようなことじゃないだろ?」

会話を遮るスタンに、ルーティが漸く口を閉じる。
確かに一見すれば雰囲気は険悪なのだが、ロニはこの景色に見覚えがあった。そう、ルーティは昔から、こうやってスタンに食って掛かりながら甘えていたのだ。怪我をした子供にファーストエイドのおまじないを掛ける時も、スタンが毎回必ず何かしらの反応を返していた。それは些細なものであったけれど例えば「それ懐かしいな」とか「ルーティ凄い、アトワイト居なくてもそれ使えるなんて!」と大げさにびっくりしてみたり、要するに彼女の癖を決して否定しなかったのだ。

(そうか、スタンさんが居なくなってから) 孤児院から一人、二人と子供達が巣立っていき、唯一アトワイトと共に旅をしたスタンだけがこの言葉の意味を理解した。だからルーティもこのおまじないを続けていたのだろう。そして今、夫を失った彼女は誰も本当の意味を理解できないその言葉を封印してしまった。そのきっかけを作ってしまったのは、紛れも無く自分だ。けれど今、その事を悔いても仕方が無い。今この状況で出来ることをロニは必死で考えた。少しでも彼女の役に立てることはないか……その時、ルーティの腕に傷ができているのが目に入る。
こんな事しかできないけれど、ルーティにまでもしものことがあったらと思うと、勝手に体が動いていた。
「……ルーティさん、動かないでください」
「え、何?」
「……ヒール!」
「あ……うそ、こんなところに?」
ロニが唱え終わると、青い光がその傷を包み、彼女の肌は最初から何も無かったように綺麗な素肌に戻った。
「ありがと……あたしったら、人にあんなこと言う資格ないわね」

罰の悪い、けれど照れたような笑顔。彼女がこれから沢山の子供の未来を救っていくのだ、と思うとロニの心に込み上げてくるものがあった。
「いいんです、ルーティさん……」

あなたとスタンさんがずっと一緒に、笑顔で、幸せに暮らしていける未来をこれから、なんとしてでも取り戻してみせます。だから、見守っていてください。思わずそう言い掛けて、ロニは頭を振った。

「どうか、お幸せに」
「な、何よいきなり、何のこと?」
「いえ、こっちの話です!それより、自己紹介がまだでしたね」

これは自分の心の中だけにしまっておけば良い決意なのだ。
必ず、やり遂げてみせる。彼女のため、世界のため、そして何より。 (二人から生まれたたった一人の息子である、カイルのために)


おまじない end

戯れ





「ちょーっとあんたたち、何やってんの!昼までに帰ってきなさいって言ったでしょ!」

雲一つ無い空に響き渡る、ルーティの声。スタンがはっと丘の上を見上げれば、彼女は大きな籠を抱えてエプロンを風にはためかせていた。
「ごめん、あんまり天気が良かったもんで、つい」
「つい、じゃ無いわよ全く……で、これは何してるわけ?」
雑草を踏み分けながらルーティが尋ねれば、スタンは困った時の癖で鼻の頭を掻きながら答えた。
「髪がね」
「髪?」
スタンの後ろにエミリオ、そしてカイルと何故か縦に並んで腰を下ろす三人が、それぞれ自分の前にある髪を弄っている。
スタンに至っては器用に編み込まれた髪を解いてしまわぬ様にと、身動き一つせずにいる。
「三つ編みのやり方教えたら、エミリオがはまっちゃってさ」
「……あんた、後ろ見てないでしょ?エミリオが三つ編みしてるの見ながら、カイルもエミリオの髪三つ編みしてるけど」
「うっそ、本当?どうりでカイルが静かな訳だ」
「あんたねぇ……」

ルーティはがくりと頭を垂れる。こいつのこの危機感の無さはどうにかならないのかしら、最もこれがスタンの良いところなのだが。
「それで?あたしが来なかったらお昼はどうするつもりだったの?」
「うっ……痛いところを突かれた……」
「あのねえ!」
すると、さっきまで黙々とスタンの髪を弄っていたエミリオが急に顔を上げた。
艶のある黒い髪が光に透けて、微かに青紫に見えるのはやはりカトレットの遺伝子が濃く受け継がれているのだろう。
エミリオは嬉々としてこちらを見上げながら、白い頬を上気させて勢いよく話し始める。

「母さん、三つ編みの最後ってどうするの?僕、結ぶもの何も持ってないんだ」
「ああ、そんなこと……ってエミリオ、あんたもねぇ……」
「できた!見てよエミリオ、俺もきれいに三つ編みできた!」
「カイル、鏡見なきゃ自分の髪は見えないんだけど」
「あ、そっか……じゃ、帰らなきゃね!あーでも手放したら解けちゃうよ」
「だから母さんに結ぶものないって訊いたの、カイル、人の話はちゃんと聞いてなきゃ駄目」
「ちょーっと!あたしの話も少しは聞きなさいってば!」

人の心配を余所に盛り上がる子供達の会話に、ルーティが割って入る。二人とも言葉が流暢に出てくるようになってからは、こうでもしないと話がいつまでも進まない。子供達の成長を素直に喜びたい気持ちと、収集が付かなくなっていくことに頭を抱えるしかない現状を憂う気持ちとが複雑に絡み合う。
「そもそもスタン、あんたがしゃきっとしないと!そんでもって結ぶものは……ほら、これ使いなさい」
ルーティは溜め息を吐きながら、籠の取っ手に巻かれた飾りリボンを解いて二人に渡してやる。

「結んだら帰るわよ!」
「ありがとう、母さん」
「わーい!ねえこれ、どうやって結ぶの?エミリオ、やってみて?」
「前に教えたちょうちょ結びすれば良いんだよ」
「うん、でも忘れちゃった……」
「しょうがないな……あのね、こうやって、ここを重ねて、くるってして……」
「ふむふむ……」

手際良くスタンの髪を結ぶエミリオの手付きに、ルーティは思わず見入ってしまう。年齢の割りに言葉が出るのが遅かったカイルに比べて、エミリオはかなり早いうちから人との会話が成立していた。読み書きに至っては今やカイルより上手だし、一度聞いたり見たりした事をまるっと覚えていたりするので親の方が驚かされることもしばしばだ。
やっぱり、あいつの血を引いているから……ふとそう思ったルーティは頭を振った。エミリオ、なんて名付けていいのか随分迷ったけれど、成長すればするほどあいつの生き写しの様に育っていくのを見ながらこれでよかったんだ、と今は自分を納得させている。


エミリオという名が、時間と共に自分の中で不幸の代名詞となっていくのが悲しかった。そんな時、黒髪で瞳の色まであいつと全く同じ男の子をこの手で抱いて。そうしたら、今まで二人して悩んで必死に捻り出した筈の名前候補なんて全て吹っ飛んでしまった。エミリオ、と知らず口にしていたのを聞いたスタンが涙を堪えて笑い、それから表情を見せまいとこちらの肩に顔を埋めて涙声で、そうしよう、と囁く。エミリオを“幸せ”にしてやろう、と言って二人で手を握った瞬間を、ルーティは未だ鮮明に覚えていた。


「ほら、こことここをきゅって引っ張るの。そしたら出来る」
「きゅ、っと……」
「出来た?」
「うん、できた!わあ、エミリオの髪にちょうちょがとまってるよ!」
「二人とも、出来たかー?父さんちょっと動きたいんだけど、平気?」
「うん、大丈夫……綺麗に結べた」

弾けるような笑顔で飛び跳ねるカイルと、満足気に微笑むエミリオと。そして、二人がきゃっきゃと戯れるのを目を細めて見つめるスタン。この光景を昔の自分はずっと欲してやまなかった。それはきっとあいつ……リオンも同じだった筈。

(幸せに、してやらなきゃね)
「ほーら、いつまでも遊んでないで、帰るわよ!」
ルーティが片手で籠を抱え直すと、スタンがえっと驚いたような顔をする。
「何よ」
「えっ、だって、その籠の中に食べ物入ってるんじゃないの……?」
「……あのねぇ、これは非常用!おやつ用に焼いたのを持ってきたの、もし何かあって動けない状況だったら困ると思って」
「さっすがルーティ、恐れ入ります……心配かけて、ごめん!」

一気に顔を蒼ざめさせて平謝りのスタンを余所に、カイルとエミリオが小さな手を繋いで丘の上へと歩き始める。
「とうさん、かあさん!はーやーくー!」
「父さん、食いしん坊」
「う、ごめんなさい……」
とぼとぼと子供達の後姿について行くスタンの背中を、ルーティは持っていた籠で小突いた。
「さっさと歩く!」
「……ねえ、ルーティ」
「何よ」
「おやつに焼いたのって、何?」


情けない顔をして、いつだって子供のようなことばかり聞いてくる彼はそれでも、私にとってはとても、とても……


「スコーンよ、この食いしん坊さん」
とても大切な人なのだ、といつになったら彼に面と向かって言ってやろうか。

そんな事をとりとめも無く考えながら、ルーティは孤児院に着くまでずっと、自分の頬が知らず緩むのを抑え切れないでいた。


戯れ end

青空





静かな街に響く、小鳥の囀り。

ジューダスはカーテンの隙間から差し込む光に目を細め、布団を跳ね除ける。くすんだ色の床に足を降ろし室内履きに爪先を差し入れ、ぱたり、ぱたりと微かな音を立て窓辺へ歩み寄るとカーテンの裾を掴んで一気に引いた。
眩しい。一面に広がる、抜けるような青空。生い茂る緑を白く照らす陽光とのコントラスト。瞼に焼き付いて離れないその鮮やかさに思わず顔を背ければ。

横で眠っていた少年の、只でさえ色素の薄い髪が刺すような朝日に透かされきらきらと輝いている。 ジューダスは吸い寄せられるようにしてベッドへ戻るとその傍らに腰掛けた。くるりと弧を描き天へと伸びる長い睫毛、程よく陽に焼けた丸い頬は、例えるなら桃のようにつるりとしていて。 親指で、そっと触れる。相変わらず目覚める気配の無い少年の輪郭をつう、と辿りながら一つ、二つと指を増やしてゆきやがて掌で撫でた。
穢れを知らぬ少年の内側をそのまま写し取った、あどけない表情。
とうとう両手でその頬を包み込んだジューダスは、少年の耳元へ静かに顔を寄せた。

「カイルーーー好き、だ」

だらしなく開いた唇を指でそっと閉じ、軽く啄ばむ。
頬と頬が触れた瞬間、まるで二人の口付けに続く様に小鳥の囀りが幾つも重なった。これを耳にしたジューダスは不意に顔を上げベッドから降り、何事も無かったかのように仮面を被る。

その仮面の内側に、僅かに朱く色付いた耳と頬を隠して。


青空 end

Farewell to Good-bye





それは神のたまごに乗り込む直前に起きた、周りから見れば取るに足らない小さな出来事だった。

一足先にリーネの村から帰って来たカイルはジューダスが自分より早く帰っていたことを母から聞かされ、急いで自分の部屋へ向かった。
綺麗に畳まれた黒いマントと仮面が床の端に控えめに置かれている。
彼はどうやらカイルの机の上に並べられた写真立てをずっと眺めていたらしく、一つの写真立てー幼い頃のカイルをスタンが抱いている写真を入れたーにだけ何度も指でなぞった跡が残っていた。
扉の開く音に気付いてこちらを振り返った彼は今にも泣きそうな顔をしながら、どうしたの、と訊ねようとしたカイルの手を引いてベットの縁に座らせると、彼は何とその両手首を後ろ手に縛り始めたのだ。

「ジューダス?」
「……何だ」
「…ううん、なんでもない」
「……そうか」
「うん」

何も言うな、従え、そんな空気を感じたカイルはこの行動の意味をすぐに問うことができない。
瞳を紫に鈍らせ、飢えた獣のように獰猛に温もりを貪る彼の姿を見るのは初めてだった。
彼の生存本能が警鐘を鳴らす、その音が今にも聞こえてくるような気さえしてカイルは瞬間身震いした。
ジューダスは、飢えている。
何にとは分からないけれど、彼の本能は猛烈にこれを欲している。
だから自分は与えることを厭わないし彼と向き合うことを辞めたりしない。

けれど……

晴天の午後の柔らかな木洩れ陽の下で微睡むような感覚。
肌と肌とが触れ合って互いの体温を分け合い、互いの輪郭さえも少しづつ曖昧になっていく、それがカイルには何故かとても悲しいことのように思えて仕方なかった。

「…カイル、何処を見ている」

耳元で囁かれた言葉は酷く甘く優しい響きを持っている、とカイルは上の空で思った。

「…俺、さ」
首筋にそっと触れるだけのキスを落とす彼の表情は余りに危うくて切なげで、つい直視出来ずに目を逸らしてしまう。
「ジューダスのこと…本当に好き、だよ」
「……知っているさ」
今度は耳の後ろ、そしてうなじ、と髪を掻き分けて探りながら吐き捨てるように彼は呟いた。
「でも、伝わってない気がして……」
ぴたりと彼の手が止まった。
額からぐしゃりと前髪を掻き上げられ、否応無しに目が合う。
「何故」
「だってこれ、俺が逃げるかもしれないと思ったんでしょ……違う?」
そう言ってカイルが後ろ手に緩く縛られた腕を示し見ると、彼はベットに沈み込むカイルの姿を暫く黙って見ていたが、やがて呆れたようにふ、と一つ息を吐いた。

「敵わないな……」
首をゆるゆると横に振るとそれきり何も言おうとしない彼に、カイルが畳み掛ける。
「俺のこと、好きなの?」
「……」
「ねえ、答えてよ」
「……答える必要は無い」
「なんで……俺はバカだから、ちゃんと言われなきゃ分かんないよ!ジューダス、一度だって俺に好きって言わない癖に、どうしてこんなことするの」
「……それ、は……」
「好きって言ったのに……俺の言葉、信じてないの?」
「違う!そんな訳……っ、」

はっと我に返ったような表情をしたかと思えば、俯きながら薄い唇を噛んでまた言葉を失う。
互いに目を伏せ、問い掛けは宙を彷徨う。

「……怖いん、だ」
「なにが?」
「拒絶されるのが……それと、また同じ過ちを繰り返すのではないか、と」
「……拒絶なんてしないよ、好きなんだから」
「やめろ、僕を好きだなんて言うな、碌なことにならない」
「なんで?好きな人に好きって言っちゃいけないの?」
「そうじゃない、僕の事なんか早く忘れろ、忘れた方が良い!その方がきっとお前が将来幸せに……っ、」

そう言いかけてジューダスが唇に手を当てたが、カイルは人の機敏にとても目敏い。
「幸せに……なれるの?なんで?」
視線を彷徨わせ必死に言葉を探すジューダスにも、カイルは問いかけるのを止めない。
「ねえジューダス、俺って不幸なの?俺、ジューダスの気持ちがやっと分かって凄く嬉しいのに」
「……っ、」
「俺バカだからさ、よく分かんないけど……でも今の俺はジューダスのこと好きで忘れたくないから、幸せじゃないってこと?」
「違う……違うんだ、僕はお前を苦しめたくないんだ。お前は人一倍純粋で素直でお人好しで、言葉にしたら余計にお前を迷わせてしまうのではないかと怖かった。だから何も言わなかった……それでも、」

”それでも、お前に触れたかった”

蚊の鳴くような声でそう呟くジューダスの姿は、普段より更に小さく見える。
これが彼なりの精一杯なんだと思うとカイルは急に切なくなって、愛おしい気持ちで胸がいっぱいになるのを感じた。

「……はは、それってちょう不器用なだけじゃん……大丈夫。俺、逃げたりしないから」

この運命から、そしてジューダスの想いからも。
自分が背負うべきものの重さ、そして人に与えるべきもの、その両方を今はちゃんと分かっている。
「こうしても、いい?」
カイルが何度か腕を引くと、手首を縛っていたハンカチは思ったより簡単に解けた。
彼が何も言わず頷くのを確認すると、すぐ両手で包み込むように彼の白い頬に触れる。
温度を感じさせない透けるような白さだが、触れればちゃんと温かい。
彼はまだ、生きている。
血の通った人間としてここにいる。
それなら今の内に彼の生きた証を、もっと沢山記憶に残しておかなければ。

「ジューダス、好きだよ」
「……知っている」
「ジューダスは俺のこと、好き?」
「……ああ」
「俺のこと、忘れないでね?」
「……当然だ。忘れたくても、きっと忘れられない……」

自分の事を話すのは苦手だと言っていたジューダスが、ここまでして必死に伝えてくれた想い。
決して無駄にはしない、と心の中で固く誓った。
彼の白い頬を一筋の涙が伝う。
カイルはそれに気付かない振りをして、彼の華奢な体を力一杯抱き締めた。


「ありがとう、ジューダス」


Farewell to Good-bye end


title








title end







inserted by FC2 system